東京オリンピック(五輪)開幕まで、残り100日を切った。3大会ぶりに復活する五輪野球の今を随時連載する。第1回は「五輪を想う」。“ミスターアマ野球”と称された日本生命の杉浦正則氏(52=首都圏法人営業第四部・法人部長)は、五輪通算1位の5勝を誇る元エース。92年バルセロナ、96年アトランタ、00年シドニーの3大会を通じて「絆の重要性」を痛感していた。(敬称略、所属チーム、肩書は当時)

00年9月、シドニー五輪野球のキューバ戦でベンチから仲間に向かってガッツポーズする、左から黒木、杉浦、阿部ら
00年9月、シドニー五輪野球のキューバ戦でベンチから仲間に向かってガッツポーズする、左から黒木、杉浦、阿部ら

あの夏、1本の電話がなければ、杉浦はシドニー五輪を辞退していた。

携帯電話を耳に当てると「おめでとうございます」と声が響いた。同志社大学で苦楽を共にした2歳下のヤクルト宮本慎也だった。

「実は全然、気持ちが上がらない。辞退しようと思っているんだ」

正直に伝えると、後輩から強く説得された。

「何言っているんですか! プロにも行かず金メダルを目指してここまでやってきたのに…。堂々と行ってきてください!」

00年7月中旬、スポーツ紙に「杉浦代表漏れ」の見出しが躍った。その数日後、今度は「一転、代表入り」が報じられ、直後に正式発表された。しかも日本選手団の主将だという。心が大きく混乱した。

「代表落ちの紙面を見て、気持ちが1回ドンと落ち込んでしまっていて…」

92年バルセロナ五輪で銅メダル、96年アトランタ五輪で銀メダルを手にした後、98年に結婚。式場で「シドニーに連れて行く」と誓った愛妻にも、代表辞退を伝えた。そんな時、宮本の言葉が32歳をもう1度奮い立たせてくれた。

「彼には本当に助けられた。人に助けられたり助けたり。これがチームスポーツの良さですよね」

アトランタ五輪直後にはダイエーや米大リーグ・メッツからの誘いを断ってまで、金メダルへの再挑戦を選んでいた。当時の熱量をよみがえらせてくれた後輩には今、感謝しかない。

00年シドニー五輪メンバー
00年シドニー五輪メンバー

結局、初のプロアマ合同チームで臨んだ3度目の五輪は3位決定戦で韓国に敗れてメダルなし。それでも過程に悔いはないという。

事前合宿に参加できたプロ選手は数人だけ。西武松坂大輔ら全員が顔をそろえたのはシドニー入り後、大会初戦の2日前。プロアマの壁を取っ払おうと必死でもがいた日々が懐かしい。

後から聞いた。プロ組が乗ったシドニー行きの飛行機内では、ロッテ黒木知宏ら社会人野球経験者たちがアマチュア組の感情を代弁してくれていた。金髪姿の近鉄中村紀洋も合流直後、「勝つために来ました」と熱く宣言してくれた。

現地では夕食後の限られた時間で懸命に「飲みニケーション」を図った。「塁に出たらベンチにガッツポーズをしよう。ベンチもガッツポーズで返そう」。照れくさい約束も交わした。

「高校生みたいでしょ? 本当に一流選手がやってくれるのかなと思ったけど、一番最初にやってくれたのが日本ハムの田中幸雄さんでした。一番やらなさそうな人が思い切りガッツポーズしてくれて…」

杉浦自身は予選リーグ5戦目の南アフリカ戦で世界記録の五輪通算5勝目も手にしている。それなのに、今思い出すのは人間味あふれる仲間の姿ばかりなのだ。【佐井陽介】(つづく)

五輪の思い出を熱く語った杉浦氏(撮影・鈴木正人)
五輪の思い出を熱く語った杉浦氏(撮影・鈴木正人)

◆杉浦正則(すぎうら・まさのり)1968年(昭43)5月23日、和歌山県生まれ。橋本高から同大に進み、大学4年の明治神宮大会優勝。日本生命では92、97年の都市対抗Vに貢献し、ともに橋戸賞(MVP)受賞。3大会連続五輪出場し通算5勝。92年バルセロナ大会銅、96年アトランタ大会銀。日本選手団と野球チームの両方で主将を務めた00年シドニー大会は4位に終わったが、初のプロアマ混成チームをまとめた。同年秋に引退。06~09年に日本生命監督。15~18年に社会人日本代表コーチ。シドニー出場時は180センチ、82キロ。右投げ右打ち。