野球の国から 平成野球史

村山実伝説 「160キロ近く出た」/平成の故人

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「ザトペック投法」と呼ばれた闘志むき出しのフォームで巨人に立ち向かった男がいた。1998年(平10)8月に61歳の若さでこの世を去った村山実。語り草となっている天覧試合をはじめ、伝統の一戦を彩った「2代目ミスタータイガース」の伝説を振り返る。

68年、広島戦で力投する村山実
68年、広島戦で力投する村山実

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村山がプロ入りした1950年代は、地方から都会への集団就職が相次いだ。石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」、村田英雄の「無法松の一生」が大ヒットした時代。58年(昭33)11月11日に阪神と契約を結んだ際、オーナーの野田誠三から受けた辞令は「契約金500万円」「阪神電鉄からタイガースへの出向社員」だった。

阪神は、初の日本一に導いた関大時代に右肩を痛めたことで、村山に仕事を保証したのだ。空き番号だった「11」を選んだが、これが後に伝説の背番号になっていく。

阪神で永久欠番になっているのは、初代ミスタータイガース・藤村富美男の「10」、牛若丸・吉田義男の「23」、そして、村山の3人。小さな体で打者に立ち向かう姿は猛虎魂を象徴した。その投げ方が、ヘルシンキ五輪マラソンで優勝したエミール・ザトペック(チェコスロバキア、当時)の走法と似ていることで「ザトペック投法」と名付けられる。

新人の59年から18勝を挙げて、3度の沢村賞に輝いた。62年に25勝(14敗)、64年に22勝(18敗)でリーグ優勝に貢献。70年セ・リーグ記録の防御率0・98もすさまじい記録だ。

しかし、何より村山の野球人生で語り草になっているのは、59年6月25日の天覧試合(後楽園)で、巨人長嶋茂雄にサヨナラ本塁打を浴びたシーンだ。

村山とバッテリーを組んだ男は今、故郷熊本で静かに暮らしている。熊本工出身で2学年上、阪神の捕手だった山本哲也は、記者と待ち合わせたカフェにつえをついて現れた。

山本 あれから村山にとって長嶋が生涯のライバルになった。長嶋はスーパーマンだったよ。インサイドの球に体が開いても、ライト前に運ばれた。引っ張られたときは怖かった。その長嶋に村山は真っ向から挑んだ。球速160キロ近くは出たんじゃないかな。

95年の阪神・淡路大震災で被災して甲子園近くから地元に戻った山本は、3年前に再び熊本地震にあった。現役時代は脱臼の繰り返しで、曲がったままの左親指を前に差し出した。

山本 小山(正明)は制球がついてキレのいいボールを投げたが、村山の球は重い。当時のミットは親指部分が柔らかく、わたしの指はボールを受けた衝撃で元に戻らない。特に村山は東京には負けたくないという男だったからね。うちは巨人戦だけに報奨金が出たし、巨人に村山、小山、バッキーをぶつけた。

天覧試合では同点の9回裏、昭和天皇、皇后両陛下が退席する3分前の午後9時12分、カウント2-2からの5球目を長嶋に捉えられた。

山本 めったに首を振らない村山が首を振った。こちらはフォークを要求したが、打たれたのはストレート。今思えば、真っ向勝負の村山らしい。完璧なホームランだった。

生前の村山は、ずっと長嶋の1発を「ファウル」と言い張った。だが、遊撃手吉田義男も、三塁を守った三宅秀史も「ホームランだった」と振り返った。

本人が現実を認めなかったのは、闘争心の塊だったエースの、せめてもの意地だったのかもしれない。(敬称略)【寺尾博和】

◆村山実(むらやま・みのる)1936年(昭11)12月10日、兵庫県生まれ。住友工-関大を経て59年阪神入団。62年MVP、沢村賞3度、ベストナイン3度など多くのタイトルを獲得。70年から兼任監督。72年途中に指揮権を返上して選手専念も、同年引退。背番号11は永久欠番に。88、89年に再び阪神監督。93年殿堂入り。現役時代は175センチ、83キロ。右投げ右打ち。98年8月22日、直腸がんのため61歳で死去。

村山実氏の年度別成績
村山実氏の年度別成績
村山実氏とバッテリーを組んだ山本哲也氏
村山実氏とバッテリーを組んだ山本哲也氏

長期連載「野球の国から」の新シリーズ「平成野球史」を、新元号となる5月まで送ります。時代を変えた野球人、時代を彩った名勝負、時代を揺るがした事件。「平成」を深掘りして考察します。

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