全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」第9弾は、広陵(広島)を率いる中井哲之さん(55)です。曲がったことが許せない純粋な性格。人情味あふれる中井さんの物語を、全5回でお送りします。

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大歓声の甲子園の中で、教え子たちがぼうぜんとしていた。中井はこみ上げる感情を、抑えられなかった。「少しひどすぎるんじゃないか。言っちゃいけないことは分かっている。でも、今後の高校野球を考えたら…」。球審の判定に納得がいかなかった。高校野球で、まして甲子園で、あり得ない言動だった。中井は宿舎に戻っても、こう語っている。「子どもたちは命をかけてやっている。審判の権限が強すぎる。高野連は考えてほしい。これで辞めろと言われたら、監督を辞める」。審判批判が本意ではなかった。この子たちを守らなければ-。その一心だった。

07年夏の甲子園の決勝は、高校野球の歴史にも、記憶にも残る一戦となった。相手は公立校の佐賀北。エース野村祐輔(現広島)、女房役の小林誠司(現巨人)らを擁する広陵にとっては、同校3度目となる夏の決勝だった。7回まで野村はわずか被安打1。打線も11安打を放ち4点をリードしていた。だが、初の夏の頂点を目前にして、試合は急転した。

8回裏、野村はこの日初の連打から1死満塁のピンチを迎えた。カウント3-1から投じた1球だった。外角低めに渾身(こんしん)の直球を投げ込んだ。判定はボールだった。押し出しの四球に、捕手の小林がミットを3度地面にたたきつけ、野村は驚いたような表情を浮かべた。佐賀北の反撃にスタンドは沸き立った。まだ3点のリードがあったが、1死満塁とピンチは続いた。そして、野村の甘く入ったスライダーは、左翼スタンドへ運ばれた。夏の甲子園で決勝初の逆転満塁弾を浴びての敗戦だった。

この年は、有望な選手に授業料免除などの特典を与える「特待生問題」が表面化。広陵に限らず強豪私学全般へ風当たりは強く、公立校を応援する“判官びいき”ともいえるムードが大勢を占めていた。

中井 勝った試合で負けた情けなさと、選手の落ち込みよう。(試合後の発言は)それを見て「守ってやらなくちゃいけない」と自然に出た言葉ですよね。全然考えて(やったことでは)ないです。

中井の思いも寄らぬ言動に、選手は言い合った。「俺らの代弁をしてくれた」「やっぱり監督は男らしいのぉ」「あんなに言って大丈夫なんかのぉ」。12年1月1日付、広島版の日刊スポーツ紙面には、広島にドラフト1位指名された明大・野村が当時のことを振り返った記述がある。「監督が異議を唱えて、その言葉で助けてもらいました。(選手の)代わりに言って守ってくださったと思います」。選手の姿に突き動かされた中井だが、教え子たちも心を動かされていた。

「2番で良かった、という人生を送っていこう」。敗戦後、広陵ナインは選手だけでミーティングを行い、そう語り合ったという。

中井 もうちょっと頑張ったら1番になれる、2番だから謙虚にもうちょっと頑張れる。2番になれたということを感謝して生きていこうね、っていうミーティングをしたらしいです。子どもだけで。かっこいいですよね。

甲子園から広島に戻った日のことも記しておきたい。広陵の校舎の向かって左側にある、グラウンドにつながる下り坂。中井は選手とともに下りていった。目の前に広がる見慣れた光景。ここで汗も涙も、数え切れないほど流した。中井は選手に語りかけた。「ここは最高のグラウンドやのぉ。行きたいグラウンドは甲子園かもしれんけど、一番いいグラウンドは広陵のグラウンドじゃのぉ」。メンバーも、控えの選手も、泣いていた。

中井 行きたくて行きたくて、やりたくてやりたくてしょうがない甲子園を満喫させていただいたんですけど、でもこのグラウンドが原点ですよね。行きたいグラウンドは甲子園、特別ですね。あれ(甲子園)がないとこんなに頑張れんでしょうねえ…。

日本高野連から中井は厳重注意を受けた。ジャッジに不平を言うのは厳禁だが、中井と選手の思いが1つだったのは間違いない。それは親子の絆のようなつながりだった。(敬称略=つづく)【磯綾乃】

◆中井哲之(なかい・てつゆき)1962年(昭37)7月6日、広島・廿日市市出身。広陵時代は3年時の80年に、1番遊撃手として春夏連続甲子園出場。春ベスト4、夏はベスト8。大商大に進学し、86年から広陵の商業科教諭に。4年間コーチを務め、90年4月に監督就任。翌91年にセンバツ優勝を果たした。監督として春夏合わせて16度出場し、春は優勝2度。主な教え子に上本博紀(阪神)、上本崇司(広島)、小林誠司(巨人)、野村祐輔(広島)、有原航平(日本ハム)らがいる。

(2018年2月12日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)