篠塚和典氏(65=日刊スポーツ評論家)が、故郷の千葉・銚子を訪れた。少年時代の思い出を本人熱演で振り返る「篠塚和典少年記~銚子の秋刀魚と草野球~」は、YouTube「日刊スポーツ野球チャンネル」で公開中。
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半世紀ぶりに、私は思いがけずも野球人生の原点に戻った。再びこの場所に立つとは考えもしなかった。しかし、こうして銚子市立飯沼小学校でバットを握っている。
昭和36年。私が4歳だったあの日、兄一夫(当時小6)の友達の言葉が、私の野球人生を決めたのかもしれない。近所に住んでいた当時銚子商野球部の鴨野さんが兄に言った。「利夫(92年に和典に改名)に野球をやらせるなら左打ちにした方がいい」。当時、私は右で打っていたがその記憶はない。そこから、左打者としての人生が始まった。
野球に没頭するフィールドは、ここだった。懐かしい場所に立ち、子どもの頃の記憶と、こうして眺めた風景に月日の重みを知る。あの頃、校庭はもっと広く、もっと大きかった。
人に教えられたものは忘れる。しかし、自分で学んだものは忘れない。校庭で1人で練習した日々が、この教訓を授けてくれた。
放課後、徒歩10分ほどの清水小学校から帰ると、ランドセルを置き、バットとボールを持ち、30秒もかからないこの校庭にやってきた。ちょうど学区の境目を隔てて飯沼小があった。自宅前の坂道を下りると、そこは校庭だった。
軟式ボールを20個ほど、袋に入れいつもの場所に立つ。なぜあれほどまでに没頭したのか、今となっては思い出せない。しかし、誰に言われたわけでもなかった。自分で決めた。当時、校庭の周りには土手があった。その土手へ、トスしたボールを打った。
プロ入りした時、右の握力は50キロを超えていたが、左は35キロ。右利きの私には、これが幸いだった。バッティングで左手が邪魔をしない。兄の友人のアドバイスと、飯沼小での土手打ち。私がバッティングを追い求める環境があった。
土手へ打ち続けるうちに気付く。私から見て左側の土手の斜面は、私の方へ傾斜がついていた。そこへ打つとボールは転がってくる。拾いに行く時間が省けるなと思った。トスをして打つ。トスをして左方向へ打つ。レフト前へ運ぶ。無限に繰り返した。私の流し打ちは、あの土手打ちがスタートになったのかもしれない。
やがて、いろんな疑問が湧いてきた。何が打球の方向を決めるのか。バットの角度か、スイングの違いか、体の使い方か。いろんなことを試した。もちろん、当時はそこまで掘り下げて考えてはいなかった。ただ夢中に、飛ぶ方向を見て、またトスを上げた。
夕飯の時間までバットを振った。ボールを足元に集めて、また打つ。1人、ただ土手へ飛ばすことだけに没頭した。あの尊い時間が、私をプロの世界へ連れて行ってくれたのかもしれない。
土手打ちが私のバッティングの原型を作る礎ならば、漁師町・銚子の大人たちの励ましの言葉は、私の支えだった。「おう、野球ガンバレよ」。まだ小学2年だった時、大人の草野球に交じり、初めて打ったヒットに、周りの大人は驚いてくれた。
それから、私を街中で見ると「野球頑張れよ」と声をかけてくれた。私はうれしかった。大人に声をかけられ、応援していると言われ誇らしかった。それが私を成長させてくれたと、今も深く感謝している。
私の「フィールド・オブ・ドリームス」の舞台となった飯沼小で、野球の試合に参加させてもらった。10月30日、快晴に恵まれ、銚子中野球部と還暦チームの練習試合に飛び入りし、真剣勝負をさせてもらった。懐かしい町を訪ね、育ててくれた銚子の空気を胸いっぱい吸ってきた。
私の大切な銚子へ、今はどんな形でもいいから、恩返しをしたいと、いつも考えている。(日刊スポーツ評論家)



