「悲運の横綱」玉の海のわずか27年8カ月の生涯に触れる機会を得た。詳細は日刊スポーツのウェブ企画「ストーリーズ」で、ぜひ読んでいただきたい。

1971年(昭46)10月11日に第51代横綱玉の海が急逝した。今年が没後50年にあたる。現役当時の記憶はない。ただ、本などの読み物で、その人物像に興味を抱いていた。「双葉山の再来」と言われ、将来を嘱望されていた中で突然、この世を去った。生きていれば長く、相撲界に貢献する存在になったことは間違いなかった。

無念の短い生涯を語る上で、NHK大相撲解説者の元横綱、北の富士勝昭さんに話を聞けたことは、貴重だった。新型コロナウイルス感染症の影響で直接の対面はかなわず、電話での取材だったが、NHKでの解説同様、その語り口は深く、心に響いた。

かつて読んだ玉の海の物語の中で、最も心に残っていたのが北の富士さんの「友情の土俵入り」だった。雲竜型の横綱土俵入りの北の富士さんが、玉の海の不知火型土俵入りを披露した。記憶の中で勝手に亡くなった後の出来事と認識していたが、亡くなる2カ月前、秋田での夏巡業でのことだった。

虫垂炎を再発した玉の海が離脱。先に日程を終えて帰京していた北の富士が、急きょ秋田・八郎潟巡業に向かい、不知火型の土俵入りを披露した。北の富士さんは「体ひとつ持っていけばよかったから。(付け人が)不知火型の綱の結び方しか知らなかったんだよ」と振り返る。真相は不明だが、2人の強い関係性を示す事として語り継がれる。

当時は「死ぬなんて思っていなかった」。ライバルであり、友人のまさかの死に「驚いたというより、肉親が亡くなった時よりも泣いたな。人が死んで、あれだけ涙が出たのは生まれて初めてだった」。

時には相手を蹴落とし、勝ち上がっていくのが「番付社会」。一方で稽古で張り合い、高め合っていく相撲界は同期やライバルとの結びつきが強いと感じる。玉の海、北の富士さんの取材を通じ、あらためてそう思った。【実藤健一】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)