フリーアナウンサー生島ヒロシ(70)がパーソナリティーを務める、TBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食/一直線」(月~金曜午前5時)が、来月5日に6000回目の放送を迎える。1998年(平10)4月6日の放送開始から23年。生島のアナウンサーとしての歩みを「生島ヒロシ6000回の歩み」と題して連載する。

◇  ◇  ◇

1975年(昭50)の夏に、カリフォルニア州立大ロングビーチ校のジャーナリズム科を卒業して日本に帰ってきました。そして、11月にTBSを受験しました。TBSは東大卒が多くてエリートのイメージが強かったんですけど、当時の社長の諏訪博さんが「TBSは真面目でアタマでっかちなエリートがいるからな~、君みたいな変わり種を1人くらい入れたかったんだよ」って(笑い)。

僕は最終面接で「日本の終身雇用制度は終わります」「日本のニュースは、もっと夕方も3時間くらいやらなくちゃいけない」とか、偉そうに言ってたんです。実際に、そうなったんですけど1975年くらいに予想していた。それで、「僕自身はTBSの生島で終わりたくない」と。自分の一生は自分で決めたいということを言った。

そうしたら「じゃあ、最初からフリーでやったらいいじゃない」って言う人がいた。だから「いや、アナウンサーは専門職ですから、職人芸ですから。“民放の雄”で鍛えていただいて、そしてフリーになって恩返しをしたい」って。さらに「僕を採らないと損しますよ」と。そんなことを言った覚えはないんですけどね(笑い)。でも、後から人事の人から「お前言ったよな。僕を採らないと損しますって。珍しいよな」って言われました。そんなことを言っても入れてくれました。TBSも余裕がありましたね。新しい血が欲しかったんでしょう。

TBSは楽しかったですね。よくモテたし、あの頃は(笑い)。ただ、アナウンサーになれたのはいいけど、なってからの方が大変でした。変な話ですけど、現実問題として基礎が全くできてないんですよ。アナウンススクールに行ったり、大学時代に放送研究会に入っていたりという経験がない。それを面白がって、採ってもらったんだけどね。

他の同期のアナウンサー3人はみんな、76年の4月入社。だけど僕は、どっかに行っちゃうかもしれないっていうことで、76年の1月1日入社なんですよ。同期の中で1人だけ。それでいきなり、「三国一朗の土曜ワイドラジオTokyo」とか、大きな番組のリポーターとかレギュラーに、久米宏さん(76)の後任に抜てきされるわけですよ。

久米さんというのは、あの頃から、30年に1人の大物だと言われていたんです。今はTBSは安住紳一郎君(47)が頑張っていますけど、やっぱり当時は久米さん。大先輩でスポーツアナの草分けの渡辺謙太郎さんが「いや~、久米は30年に1人だな」と感心していたくらいの傑物だったんです。

だから、その後を継がしていただくのはいいんですけど、担当ディレクターが開成、東大のエリートで、すごい厳しかったんです。ちゃんとお前を育てるよと言う意味で言われていたんですけど、しゃべっている日本語を一から直せと。東北のなまりは、そんなに気にはならなかったんですけど、ボキャブラリーが貧困でね。アメリカ帰りだから、横文字がついつい出ちゃう。それは、やめてくれと。あのルー大柴さん(67)のヘンテコ英語のブームより、15年も早かったんです(笑い)。

(続く)

◆生島(いくしま)ヒロシ 1950年(昭25)12月24日、宮城県気仙沼市生まれ。71年に法大経営学部を中退して渡米。75年カリフォルニア州立大ロングビーチ校ジャーナリズム科卒。76年TBS入社。89年にフリー。現在のレギュラーはTBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食・おはよう一直線」(月~金曜午前5時)。長男は俳優生島勇輝(36)次男は俳優生島翔(35)。血液型A。