前回王者の浦和レッズは理文(香港)を3-0で下し、アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)出場を決めた。

理文で左ウイングバックで先発したのは日本人のDF立花稜也(27)だった。 試合後、立花は「違いを見せられました。でも、自分としては最高でした。埼玉スタジアムで浦和レッズと試合が出来る機会は僕のサッカー人生でもあるかどうか分からないので。楽しめました」と振り返った。

立花はJリーグの経験はない。岐阜工業高時代、全国高校サッカー選手権に2度出場。卒業後、モンテネグロに渡り7年間プレーした。22年に、香港の理文に加入し現在に至る。

「高校卒業後、Jの選択肢はなかった。オファーもなかったですし。大学も考えたけど、父に“海外でも行ってみたら?”と言われて、海外行ってみようと」。渡航先は父と探した。「モンテネグロだったらプロになれて、そこで結果だしたらチャンピオンズリーグの予選に出られるかもしれない、という情報を見つけて。行ってみようと決めました」。

モンテネグロでは2部クラブからスタートした。だが、現地では1部でも2部でも、住む場所と食事は提供されたが、給料は微々たるもの。月に1000ユーロ(約15万円)出たらいい方だった。「最初の1年は寮もなくて、仕送りしてもらいました。その後は、オフで日本に帰ったときに派遣のバイトをしてました。工場で段ボールの仕分けする仕事とか。オフでお金を作って、モンテネグロに帰ってサッカーをする感じでした」。

モンテネグロのサッカー界に入り「やれる」との手応えはつかめていた。「1部に上がって結果を出して他の国にステップアップする」と目標を決めた。目標通り1部のペトロバッツでプレーし、22年に香港の理文に加入した。香港ではようやくアルバイトせず、サッカーだけで生活できるようになった。「やっと、職業でプロサッカー選手だと言えるようになったかなと思います」。

渡欧したときに「How old are you?」も分からなかった英語だが、今はチームメートとコミュニケーションを取れるほどに成長した。

浦和で日本代表経験を持つDF酒井宏樹、MF中島翔哉はテレビで見ていた存在だった。ACLプレーオフのピッチで対戦が実現。立花は「夢のような舞台でした。酒井選手を見てサイドバックの勉強をしていた。試合前から興奮収まらないぐらいで(笑い)。最初の立ち上がりで、こちらが萎縮して後手後手に回ってしまった。そこを仕留めてくるのはすごいなと」。試合では立花が守る左サイドを崩され2失点。流動的な中島のプレーも含め「最初に対応するのは難しかった。ボールを取れる気がしなかった。やられました」と脱帽した。

この日は岐阜から家族が観戦に駆けつけた。「プロサッカー選手としての最初の試合を見せられたかな」。今後の夢を聞いてみた。「僕はできるだけ長く、サッカーをやりたい。香港は、30代後半までプロとしてやっている外国人選手も多くて、国籍取得して国籍取る選手もいるぐらい。僕は国籍取得するのはむずかしいかもしれませんが、今はプロ生活2年目のようなもの。できるだけ長くやって、両親や家族にサッカーをやっているプレーを見せたい」。