ワールドカップ・ロシア大会の話題をお届けする「ズドラーストヴィチェ!」。対戦国紹介の第2弾はセネガルだ。エースFWサディオ・マネ(26=リバプール)を輩出した、エリート養成アカデミー「ジェネレーション・フット」のマディ・トゥーレ会長(48)を同国の首都ダカールに訪ね、ルーツを探った。【取材・構成=木下淳、松本愛香通信員】
◇ ◇ ◇
マネは、セネガル南部の農村バンバリで生まれた。外国人が立ち入ることのできない、人口2000人の村。2歳から路上でボールを蹴っていた。00年にジェネレーション・フットを創設した元プロ選手のトゥーレ会長は「各都市にスカウトを常駐させているが、最初、その網には掛からなかったんだ」。なぜなのか。
その前にマネの幼少時を振り返る。自らは語らないが、実は早くに父親を亡くしていた。イスラム教の導師だった父は厳格。息子には勉学に励むことを望み、サッカーに反対した。10歳だった02年、セネガルがW杯日韓大会で初出場ベスト8と躍動し、FWディウフにあこがれた少年にとっては酷だった。遺志は母や伯父が継ぎ「このままではプロになれない」。サッカーで家族を裕福にしたいと思っていたマネ少年は、焦って行動に出る。15歳の時に家出し、知人の車で7時間かけてダカールへ。1週間後に連れ戻されたが「サッカーを続けさせてくれないなら再び家出する」と宣言した。家族も折れた。そうしてンブール(ダカールの南にある都市)での試合に出ていた時、運命が変わった。
アカデミーのスカウトは不在も、偶然プレーを見ていた芝生の管理責任者が本部に進言し、マネはテストに招待された。トゥーレ会長は「当時のサディオはスパイクすら持っていなかった」と笑う。穴だらけのスニーカーで「プレーできるの?」と聞くと「これしかないから。でも問題ないよ」と目は輝きを失わない。ツルツルの靴底でも、低重心かつ鋭い加速で抜きまくった。「とても小さなバンバン(フランス語で坊や)だったけど、初めて見た時から偉大な選手になると確信した。天才でエレガントでフェノメン(怪物)だ」と会長。一発合格だった。
マネは19歳まで在学。ストリートで培った本能的な攻撃力がアカデミーで洗練された。「狭い路上では計算も戦術もないが、才能は磨かれた。そこに我々が最先端の理論を注入した」。マネ本人も「戦術やスタイルを学べた」と感謝する。トゥーレ会長は「15歳から自分がサディオの“父親”だったが、反抗期は1度もなかった」とも証言する。最後の意思表示は家出。入学後は「とにかく人の話を聞いた。例外的な性格」で貪欲に吸収し、成長した。
アカデミーは、日本代表GK川島が所属するフランス1部メッスと提携している。その支援で学費も食費も寮費も無料。成績の上から3人前後が毎年メッスに入団する。その1人がマネだった。移籍後、12年にロンドン・オリンピックで8強。オーストリアのザルツブルク、DF吉田のサウサンプトンを経て16年からリバプール。MF香川も師事したクロップ監督はドルトムント時代から獲得を望んでくれた。
その下で今季、公式戦20得点。5月の欧州CL決勝でレアル・マドリードから得点も奪った。半年前、リバプールの練習施設をマネに案内されたトゥーレ会長は「専用の礼拝室があった」と“息子”が人格的に認められていると実感した。アカデミーは100人を超えるプロ選手を輩出し、今回のW杯にはマネ、サコ、サルの3FWが出場する。会長はセネガルの勝利だけ信じて口角を上げた。「私の息子たちを、日本は止めることができないだろうから」。
◆サディオ・マネ 1992年4月10日、セネガル・バンバリ生まれ。同じカザマンス州のセディウに移り住み、15歳でジェネレーション・フットへ。18歳で欧州へ渡り、現在プレミアリーグ4季連続2桁得点中。サウサンプトン時代の15年アストンビラ戦で、プレミア最速の2分56秒間でハットトリック達成。代表では主に右FWで背番号10。Rマドリードへの移籍の可能性も報じられた。175センチ、69キロ。