「大王わさびスタイエンスタジアム」というサッカースタジアムを知っているだろうか。収容人数は1万4600人。日本ではなく、ベルギー1部リーグ、シントトロイデンのホームスタジアムだ。昨年2月からこの名称となった。同リーグで、日本企業によるスタジアムのネーミングライツ取得は初だという。
なぜベルギーで? わさび? さまざまな疑問を解消すべく、大王わさび農場を運営する「大王」の深沢大輔代表取締役社長(40)を直撃すると、企業価値の向上にとどまらない地域発展への思い、サッカーとの意外な縁が見えてきた。
長野県安曇野市にある同社は、開墾から109年のわさび農家だ。5代目社長の深沢氏は、「たまたま知り合いのシントトロイデン関係者の方からお声がけいただきました。わさびというと、静岡の方が注目されているけれど、安曇野の生産者も頑張っている。サッカーのスタジアムというと、突拍子もないですが、それによって安曇野ってどういうところなのかと興味を持っていただけるかなと」と命名権取得の経緯を明かした。
世界中に広がる日本食ブームの一方で「本物のわさびを知らない方も多い」という思いがある。海外では、新鮮なわさびはなかなか手に入れることはできない。わさびの魅力を世界に発信したい思いと、シントトロイデンのクラブ哲学が重なった。
シントトロイデンは、17年から日本企業のDMMグループが経営権を取得したこともあり、多くの日本人選手が所属してきた。現在はGK鈴木彩艶(21)やMF伊藤涼太郎(26)藤田譲瑠チマ(22)山本理仁(22)ら6人の日本人選手がいる。かつてはDF冨安健洋(25=アーセナル)MF遠藤航(31=リバプール)らが同クラブを経てビッグクラブへ羽ばたいていった。そうした背景を受けて、深沢社長は「日本人の選手の価値をどんどん上げていこうというビジョン、方針を知ることになり、共感しました。(スタジアムの命名権取得は)はたから見ると突拍子もないかもしれませんが、日本のという物の価値を高めるという観点で同じ」と説明した。
深沢社長はシントトロイデンに縁もゆかりもない。行ったことすらないという。それでも安曇野と重ね合わせる部分があった。「(首都の)ブリュッセルではなく少し田舎というイメージで、弊社も田舎ですので、そこで頑張っている人が注目されるというのは、聞いていてワクワクする。(オファーを受けたときは)『なんでうちに?』とビックリしました。まあでもサッカーが好きだし、何かの縁なのかな」とかみしめるように話した。オファーを受けてからすぐに社内で協議し、了承を得て、23年2月から正式に「大王わさびスタイエンスタジアム」となった。
地域発展への強い思いが、命名権取得の決定につながった。「わさび業界、安曇野が盛り上げればいいなと。少なくとも興味が安曇野に向けば、観光地の消費額がトータルで上がればいい。例えば、以前は北陸新幹線が長野で止まっていましたけど、金沢、敦賀まで伸びて、そっちに流れていった。通過点になってはいけないなというのはある。少しでもここに寄ってもらえて、長く滞在してもらいたいなと」。100年を超える企業として、大局観に立って物事を考えた上での決断だった。
サッカーとは何かと縁がある人生だった。地元の少年団でサッカーを始めた。長くは続けなかったが、サッカーを見ることは変わらず好きだった。自身が幼い頃に、上京した兄弟に連れられて創成期のJリーグを観戦。川崎市に住んでいた姉と一緒にヴェルディ川崎の試合を見に行った。「『これがカズ(三浦知良)の家だよ!』とか教えてもらいましたね」と懐かしむ。日本中が盛り上がった02年ワールドカップ(W杯)日韓大会は、東京の大学生として迎えた。仲が良かった大学サッカー部の友人らと楽しみ尽くした。
大学卒業後にもサッカーとの関わりは不思議と続いた。靴職人になるために、イギリス・ロンドンで修行していた際には、イングランド・プレミアリーグの強豪アーセナルの本拠地エミレーツスタジアムの目と鼻の先に住んでいたという。「向こうで不動産を探していたら、たまたま近くだったんです。ファンクラブ会員になったけれど、リーグ戦のチケットはなかなか取れませんでしたね。カップ戦とかは何回か見に行けました」。当時は約20年後に自身が家業を継いで、異国のスタジアムに名前をつけるなど、想像もできなかったが、貴重な経験だった。
スタジアムの可能性を信じている。昨年、わさび組合の旅行の行程で北海道のエスコンフィールドを訪れた。「度肝を抜かれました。すごいホテルがあったり、ショッピングセンターみたいだった」。試合を観戦したわけではなかったが、旅行の中で、組合員から一番評判がよかったという。現在はJリーグでもスタジアムグルメなどが充実している。「スタジアムって人が集まって、試合見るだけでなくコミュニティーになる役割も感じている。生活の一部になっていますよね。なんかワクワクするじゃないですか」と目を輝かせた。
人が集まる場に食事は不可欠。自ずとわさびとの親和性も高くなる。スタジアム内のレストランでわさびを取り入れられないかと相談はしているという。シントトロイデンが日本人選手の価値を高めるように、深沢社長もわさびの価値を世界中に広めたい。「やはり希少性がありますよね。日本食とは当たり前ですけど、世界的に見たら希少性が高い。擦ったわさびは知っていると思いますが、茎も葉っぱも全部食べられるし、辛みも違う。擦り方によってもいろいろな味を出せる」と熱弁した。
1915年創業の大王わさび農場、1924年創設の同クラブ、1927年設立の同スタジアム。異国で伝統を育んできた両者が交わり、新たな歴史を紡いでいく。【佐藤成】