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戦災とスペインかぜ禍で開催された五輪の教訓

日本初の五輪メダルとなったテニスの熊谷一弥が20年アントワープ大会で獲得した銀メダル
日本初の五輪メダルとなったテニスの熊谷一弥が20年アントワープ大会で獲得した銀メダル

今からちょうど100年前の1920年8月14日、アントワープ・オリンピック(五輪)の開会式が行われた。日本を含む史上最多の29カ国から2591人の選手が参加。初めて5つの輪をつなげた五輪旗の掲揚と選手宣誓が実施された。公式報告書は「卓越した統率力をもって完璧かつ厳かに行われた」と大会を総括している。

ただ当時の資料を調べると、実体はだいぶ異なる。以下はデイビッド・ゴールドブラット著『オリンピック全史』(原書房)からの一部抜粋。「オランダチームは港に係留された船に押し込まれた。射撃の選手は大半が軍のバラックに泊まらされた。安ホテルは選手たちで大混雑だった」。一方で開会式の一般席はガラガラだった。

テニスで銀メダルを獲得して五輪の日本人初メダリストになった熊谷一弥も、自伝『テニスを生涯の友として』(講談社)で大会を酷評している。「設備も不完全、秩序は不整頓(中略)これがオリンピック大会の檜舞台とはお世辞にも申しがたい(中略)試合進行がまた無茶苦茶(中略)選手の迷惑などおかまいなしだった」。

時は1800万人の犠牲者を出した第1次世界大戦(14~18年)終結からわずか1年9カ月。世界で2500万人超の命を奪ったスペイン風邪(18~20年)直下での開催だった。戦火で甚大な被害を受けた開催国のベルギー政府は国民の救済を優先したため、大会の経費不足、準備不足は深刻だった。そのしわ寄せが選手にきた。

国際オリンピック委員会(IOC)がアントワープを20年五輪の開催地に決めたのは19年3月。スペイン風邪は収束していなかったが、あえて戦火のひどかったベルギーで五輪を成功させることで、世界中で平和を分かち合おうという狙いがあった。この状況はコロナ禍で来年に延期された東京五輪とも重なる。

もっとも招致に動いたのは地元の特権階級の貴族たちで、市民の関心はもともと薄かった。前出『オリンピック全史』によると、開会式の1週間後から入場無料にしたが観客は増えなかったという。事前の告知宣伝が決定的に不足していた。平和の祭典の意義を理解している人も少なかった。それが競技運営にも影響したのだろう。

1世紀前とは時代背景も五輪のありようも様変わりした。来年の東京大会とは比べようもない。競技日程や会場は延期前と変わらず、選手へのしわ寄せも少ないはずだ。ただ、コロナ禍で薄れた地元の五輪への関心を、再び高めていく努力はしなければならない。それがアントワープ大会の教訓でもある。

東京大会は感染対策のため、観客の入場が制限される可能性がある。それでも五輪を成功させるために最も重要なものは、開催を歓迎する地元の熱であり、盛り上がりであり、一体感である。それは100年前も、今も変わらない。【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)

88年入社。バトル、五輪、テニス、サッカーなどを担当。五輪は92年アルベールビル冬季大会、96年アトランタ大会を現地取材。08年北京大会、12年ロンドン大会は統括デスク。サッカーは現場キャップとして98年W杯フランス大会、02年同日韓大会を取材。現在は東京五輪・パラリンピック準備委員。

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