ノルディックスキー・ジャンプ男子個人ノーマルヒルで、小林陵侑(25=土屋ホーム)が104・5メートル、99・5メートルの合計275・0点で金メダルを獲得した。ジャンプ日本勢の金メダルは1998年長野大会のラージヒルの船木和喜と団体以来24年ぶり。ジャンプの日本勢として海外開催の五輪では初の頂点だ。1972年札幌五輪で笠谷幸生ら「日の丸飛行隊」が表彰台を独占したのは同じ2月6日。ちょうど50年後、日本のエースが偉業を達成した。

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小林陵がぶっ飛んだ。表彰台の中央に立つ時もぴょんと跳ねて飛び乗った。“魔物がすむ”といわれ、数々の優勝候補がプレッシャーで泣いた大舞台で、頂点に立った。機嫌良く「僕が魔物だったかもしれないです」と笑った。25歳のエースが日本ジャンプ界に24年ぶりの金メダルをもたらした。

強かった。気まぐれな風も日本のエースには関係ない。1回目は向かい風に恵まれない中でも104・5メートルを飛んで首位。金メダルをぐっとたぐり寄せると、不利な追い風となった2回目も重圧を振り払い、99・5メートルまで伸ばして逃げ切った。試技は出場50人中ただ1人飛ばなかった。「いいイメージがあった」と、ぶっつけ本番でビッグジャンプを披露した。

岩手県八幡平市出身。ジャンプ一家で育った。4人きょうだいの次男。父宏典さんが自宅の芝生に雪を積み上げて作った3メートルのジャンプ台で3歳から5歳上の兄潤志郎をまねてスキー板をはいて飛んだ。小学5年時には岩手県主催「いわてスーパーキッズ」の第1期生に選ばれた。県内の応募者1114人中78人の合格者となり、当時から身体能力と対応力の高さは光っていた。他競技を体験すると、短時間ですぐにマスターした。特にレスリングの授業では指導者から「この子ならレスリングで世界に行ける」と太鼓判を押されるほどだった。地元での原点が世界一のジャンパーを育んだ。

初出場だった前回の18年平昌五輪の個人ノーマルヒルで日本勢最高の7位入賞。翌シーズンはW杯総合優勝。だがその後2シーズン、腰痛などもあり納得のパフォーマンスが出せなくなった。だが、周囲が期待するのは勝利。「みんないい時期を知っている。比較されてしんどい」と漏らしたこともあったが、その期待と重圧も受け止めて、さらに強くなろうと決意した。これまでやったことがなかった動画での研究をした。特に繰り返し見たのが好きな平昌五輪団体金メンバーのタンデ(ノルウェー)のジャンプ。気づいたことはスマートフォンのメモ機能に記録し、見返した。

くしくも72年札幌五輪で笠谷幸生ら「日の丸飛行隊」が表彰台を独占したのは同じ2月6日。以来、ちょうど50年後、自身のYouTubeチャンネルの動画内で「ぶっ飛んでいきましょう」とあいさつするのがお決まりの25歳が、世界中を沸かせた。残りの個人と団体を含め前人未到の4種目制覇の夢も広がる。「楽しみですね」と自身への期待を高めた。【保坂果那】

<小林陵侑(こばやし・りょうゆう)>

◆生まれ 1996年(平8)11月8日、岩手・八幡平市出身。

◆家族 両親と兄、姉、弟。兄潤志郎は雪印メグミルク所属で五輪2大会連続出場。姉諭果はCHINTAI所属、弟龍尚は土屋ホームのチームメート。

◆W杯 16年1月24日ザコパネ大会(ポーランド)でデビューし7位。初勝利は18年11月ルカ大会(フィンランド)だった。通算26勝は日本男子歴代最多。

◆ジャンプ週間 18-19年に史上3人目の4戦全勝での総合制覇。日本人では初の快挙。21-22年で開幕3連勝で2度目の制覇を達成する。

◆ユーチューバー 21年8月からYouTubeチャンネル「小林陵侑 Ryoyu Kobayashi」を開設。欧州のファン向けにポーランド語字幕も入れており、海外からも人気。動画でのお決まりのあいさつは「ぶっ飛んでいきましょう!」。