柔道男子100キロ級で15年世界選手権王者の羽賀龍之介(25=旭化成)は3位決定戦でブロシェンコ(ウクライナ)に三角絞めで一本勝ちし、銅メダルを獲得した。男子の井上康生監督(38)が00年シドニー大会で金メダルを獲得して以来4大会ぶりのメダルとなった。

 「怖いな」。羽賀は感じてしまった。初戦から首を振る。27戦25勝2敗と世界王者まで駆け上がった昨年とは違う感覚だった。「勝つ時はその怖さを感じずに、入り込めているが」。五輪の雰囲気に要因を求め、本人は否定したが、3月に負った左膝のけがが敗因だろう。

 小内刈りが出ない。テーピングを施した左の刈り足がおかしい。新旧世界王者対決の準々決勝クルパレク戦でも、脚が動かない。入りが浅く単発。連続性もなく、背中を握られ動きを制された。完敗。「実力で負けた」と、勝ち上がり王者になった相手を仰ぎ見た。

 出身校、内股の武器が同じで「井上康生2世」と呼ばれるが、小内刈りこそ羽賀を羽賀たらしめる。井上監督を育てた東海大の佐藤師範(当時)に小4で見いだされ、鍛えられた。転機は高2の左肩の脱臼。強引な背負い投げで負傷した。「井上は脚が短い、下半身ががっしりで背負いに合う。羽賀は脚が長い、鹿のよう。ピョンとしているが、力強さはなかった」と佐藤氏。原因は体形だった。

 背負いも武器にした先人との差を感じ、覚えたのが小内刈りだった。長い脚を生かし、重心を下から崩し、内股につなげる。誰もが警戒する大技だけに、足技を“まき餌”に、そこへ至るまでの崩し方が生命線。軽量級が得意とする小内刈りをできるセンス、体形こそ羽賀最大の武器だった。

 肩の脱臼を出発点に、自分だけの歩みは始まった。敗者復活戦、金メダルを逃した失意から意欲が湧かないまま相手と組むと「負けたくない」とうずいた。3位決定戦、三角絞めの一本勝ちにつなげたのは小内刈りだった。重量級再建を担ってきた重圧からの解放に悔恨が重なったのか、表情に浮かんだのは笑みでも涙でもなかった。そこには確かに「羽賀1世」がいた。【阿部健吾】

 ◆羽賀龍之介(はが・りゅうのすけ)1991年(平3)4月28日、宮崎県生まれ。神奈川・東海大相模高3年時の高校総体で個人、団体の2冠達成。東海大進学後、10年世界ジュニア選手権、11年ユニバーシアードで優勝。15年に世界選手権初出場で初優勝。井上監督と出身、出身校、得意技の内股も同じで「後継者」と呼ばれる。186センチ、100キロ。

 ◆男子最多

 日本柔道のメダルは10個となり、92年バルセロナ、04年アテネ両五輪の最多記録に並んだ。男子は6個で過去最多。