聖火リレー出発式の会場となったJヴィレッジ(広野町、楢葉町)は東日本大震災後、東京電力福島第1原発事故の対応拠点となった。青々とした芝生のピッチは鉄板で覆われ、原発に向かう車両の駐車場となった。

原発事故から数年が経過しても放射線量が高い場所がある。もうここにサッカーがある風景は戻らない。誰もがそう思っていた。しかし、福島県庁の市村尊広さん(53=現福島市商工観光部長)は違った。「Jヴィレッジは福島にとって希望の地。昔のように子どもたちがボールを蹴る風景を取り戻す」と立ち上がった。

14年、東電と向き合う部署へ異動するとJヴィレッジの復興計画案づくりに着手。日本にまだなかった全天候型のドーム練習場と、収益を生むためのホテル建設の2本を軸に、案を詰めていった。内堀雅雄副知事(現福島県知事)に持って行くと「ぜひやってほしい」とゴーサインが出た。

新設施設の建設費用は福島県の分担。多くの寄付を集め、地域に根ざした新生Jヴィレッジを目指した。一方、ピッチなどの原状復旧は東電の義務だったが、この交渉が最も難航した。

ピッチや宿泊施設の復旧を求めても、97年の開設から「十数年たっていて、そもそも劣化していた」と主張され、理想の復旧工事になかなか応じてもらえなかった。それでも「中途半端では意味がない。日本でトップのサッカー施設としてJヴィレッジを地域に取り戻すことで、また活気を取り戻したかった」と折れなかった。

市村さんは明かす。「一面駐車場、線量も高い。県は一時『もう復旧は無理だと諦め、東電にこの敷地を売ろう』という考えにもなっていた」。そのどん底から市村さんらの不屈の交渉により19年4月、Jヴィレッジはサッカー施設として再開した。

その場所が五輪聖火リレーの出発地に。「原発が爆発した当時、まさかこんな日が来るとは思わなかった。言葉にならない」と感無量だった。【三須一紀】