【追憶 江川卓〈4〉】大宮、浦和、日大三、小山…国立進学クラスのある作新学院へ

夏が来れば思い出す、江川卓の群像劇。本人がたっぷり語った15回連載を送ります。わが子の進路を思う親心。怪物の夜明け前、第4回。(2017年4月7日掲載。所属、年齢などは当時。文中敬称略)

高校野球

★大学許されなかった父・二美夫

江川の進路先を巡って、父の二美夫は「進学ができて、野球も強い」高校の情報収集に腐心した。

それだけ大学進学にこだわったのには、わけがある。二美夫は男4人、女2人の6人きょうだいの次兄として生まれた。

生家が経済的に貧しく早くから働かなくてはならず、福島県内の平工業学校(現平工)卒業後、就職。大学進学が許されたのは、京大に進んだ三男だけだった。

江川は言う。「行きたかったけど行けなかった無念さを、オレが子どもの頃からよく聞かされた」。息子にはそんな思いはさせたくない。もう1つの理由を、こう続けた。

「もしプロ野球にいったって、35、36(歳)になればやめるんだから、その後の人生も考えながらやれよ、ということも言ってた。多分、自分の学歴という壁にぶち当たったんだろうね」

★ベストは甲子園から東大

江川の記憶では、二美夫は栃木県内にとどまらず、広く埼玉県にも足を運び、大宮、浦和といった高校の情報も収集したという。

思わず、耳を疑った。確かに、それまでに大宮は春2度、夏5度の出場を誇り、選手権でベスト4に進出している。

「問題」は、浦和だ。

1955年(昭30)、和歌山県生まれ。早大卒。
83年日刊スポーツ新聞社入社。巨人担当で江川番を務め、その後横浜大洋(現DeNA)、遊軍を経て再び巨人担当、野球デスクと15年以上プロ野球を取材。20年に退社し、現在はフリー。
自慢は87年王巨人の初V、94年長嶋巨人の「10・8最終決戦」を番記者として体験したこと。江川卓著「たかが江川 されど江川」(新潮社刊)で共著の1人。