【追憶 江川卓〈7〉】「江川卓のストレートを投げるには、石投げからやらないと」

夏が来れば思い出す、江川卓の群像劇。本人がたっぷり語った15回連載を送ります。有名な逸話で河原へ日参した少年も多かったはず。自分もそのクチでした。(2017年4月11日掲載。所属、年齢などは当時。文中敬称略)

高校野球

★静岡・佐久間町 自宅近くの河原

江川の遠投の源は、天竜川の「石投げ」にあった。

木曽、赤石両山系にはさまれ、険しい地形と流れから「暴れ天竜」の異名を取る。

静岡、愛知、長野の3県境に位置する佐久間ダムを過ぎると、それまでの南北の流れが、東に方向を変える辺り、そこが、江川が小、中学時代を過ごした静岡・佐久間町だった。

小2のころ、学校から戻った江川は「ちょっと散歩に行こう」と誘う父二美夫と、自宅からほど近い天竜川の河原に出掛けた。二美夫はおもむろに、足元の石を拾い上げ、激流に向かって投げ始めた。

「まねして投げたら、おやじほど飛ばなかったけど、あまり差はなかった。おもしろくなって投げ続けた」と江川。対岸までは100メートルほどあり、最初は川の半分ほどの所で流れにもまれた。

それが江川の野球との最初の出会いだった。

★連日30~40個 風に乗せる感覚

当時、自宅の校区の山香小ではなく、同町の中心部にある佐久間小までバスで“越境”通学していた。校区には友だちがおらず、いつもバスを降りた停留所から1人で河原に下りていっては、毎日のように石投げに興じた。

手のひらで軽く包めるくらいの大きさの、平たい石を探して日に30~40個投げ続けた。

「どんどん距離が伸びた。すると、風に乗せればもっと飛ぶという感覚がわかってきた。投げる角度と、風の流れに乗せる投げ方というのかな」

遊びのようで、石投げは習慣、トレーニングの一環だった。

もとより、負けん気は強い。小6時、体育の先生が生徒に縄跳びをやらせ、クラスのチャンピオンを競わせた。その時のことを、小、中学時代の捕手、関島民雄はよく覚えていた。

1955年(昭30)、和歌山県生まれ。早大卒。
83年日刊スポーツ新聞社入社。巨人担当で江川番を務め、その後横浜大洋(現DeNA)、遊軍を経て再び巨人担当、野球デスクと15年以上プロ野球を取材。20年に退社し、現在はフリー。
自慢は87年王巨人の初V、94年長嶋巨人の「10・8最終決戦」を番記者として体験したこと。江川卓著「たかが江川 されど江川」(新潮社刊)で共著の1人。