【独占2時間】清原和博氏「自慢の父がこんな人だったと語ることで、弔いに」/前編

プロ野球で通算525本塁打を放った清原和博氏(55)が、日刊スポーツの独占インタビューに応じ、3月25日に85歳で急逝した父洋文さんへの思いを語りました。次男・勝児選手(慶応高2年)が甲子園に「清原コール」を響かせた21日から、わずか4日後の訃報でした。

「真面目で、無口で、仕事熱心な人だった」

「我慢強く、粘り強く、本当の男の強さを教えてもらった」

清原氏が明かした亡き父への思いを、2回にわたって送ります。

プロ野球

清原氏が明かした通り、控えめを通した洋文さんの写真は2点しか見つからなかった。西武入団会見で=1985年12月12日、池袋サンシャインプリンスホテル

清原氏が明かした通り、控えめを通した洋文さんの写真は2点しか見つからなかった。西武入団会見で=1985年12月12日、池袋サンシャインプリンスホテル

◆清原和博(きよはら・かずひろ)1967年(昭42)8月18日、大阪府生まれ。PL学園では1年から4番を打ち、桑田投手とともに5季連続で甲子園出場。通算13本塁打を放ち、優勝2度、準優勝2度。85年ドラフト1位で西武入団。1年目から4番に座り、打率3割4厘、31本塁打で新人王。96年オフにFA権を行使し巨人移籍。通算525本塁打は歴代5位。サヨナラ安打20、サヨナラ本塁打12、196死球は歴代最多。西武と巨人でリーグ優勝10度、日本一8度。05年オフに巨人を自由契約になり、オリックス移籍。08年現役引退。現役最終年は188センチ、104キロ。右投げ右打ち。

引退試合、試合前のベンチで=2008年10月1日、京セラドーム大阪

引退試合、試合前のベンチで=2008年10月1日、京セラドーム大阪

洋文さん85歳で急逝 次男の甲子園から4日後

インタビューは都内の住宅街にある清原氏の自宅で行った。テーブルの上には父洋文さんの写真が立てかけてあり、ソファに座る清原氏とちょうど顔を合わせる形になっていた。


――3月末は清原家に大変なできごとが続いた

清原氏(以下、敬称略)怒濤(どとう)の1週間でした。勝児が甲子園でプレーして、僕も応援で燃え尽きていました。試合の翌日、22日に東京へ帰って休んでいたら、24日に弟から「父が危ない」という連絡が来ました。慌てて大阪に戻りましたが、25日朝の最期には立ち会えませんでした。

次男の勝児が甲子園初安打を放ち、感極まる清原氏。4日後の訃報だった=3月21日

次男の勝児が甲子園初安打を放ち、感極まる清原氏。4日後の訃報だった=3月21日

――状態は悪かったのですか

清原いえ、入院はしていましたが、状態はよかったんです。甲子園の直前、17日に(元妻の)亜希と一緒に父を見舞いました。このときは、先生も「来週あたり、病院を出て、介護施設に戻れるでしょう」と言っていたぐらいです。

「こんな力が残っていたのか」

――そのときは、どんな話をしましたか

清原介護レベル5で、もう言葉も発することができないし、意思を伝えることもできませんでした。ただ、このとき、父が僕の手を強く握り返して、カーッと目を見開きました。3回もです。まだ、こんな力が残っていたのかと驚きました。

――何か伝えたかったのでしょうか

本文残り75% (3020文字/4016文字)

編集委員

飯島智則Tomonori iijima

Kanagawa

1969年(昭44)生まれ。横浜出身。
93年に入社し、プロ野球の横浜(現DeNA)、巨人、大リーグ、NPBなどを担当した。著書「松井秀喜 メジャーにかがやく55番」「イップスは治る!」「イップスの乗り越え方」(企画構成)。
日本イップス協会認定トレーナー、日本スポーツマンシップ協会認定コーチ、スポーツ医学検定2級。流通経大の「ジャーナリスト講座」で学生の指導もしている。