【激動の1995〈5〉】永友洋司右足の奇跡 源にある北島忠治の教えと挫折知る強さ

最後に同点のゴールを決めたのはサントリーの主将、永友洋司だった。神戸製鋼の連覇を止めた1回戦、三洋電機との決勝。いずれも劇的な幕切れだった。体の小さな男はいかにして日本を代表するスクラムハーフ(SH)になったのか。高校受験の失敗、大学での挫折。根底には明治の哲学、北島忠治の教えがあった。連載の第5回。(敬称略)

ラグビー

 

高校日本代表、明治大、サントリーで主将

96年1月28日、サントリー対神戸製鋼。キックを放つ永友洋司

96年1月28日、サントリー対神戸製鋼。キックを放つ永友洋司

永友洋司(ながとも・ようじ)

1971年(昭46)3月14日、宮崎県児湯郡生まれ。中学まではサッカー、都城高からラグビーを始める。高2の花園はFBとして出場し4強入り。高校日本代表にはSHとして選出され主将を任された。明治では対抗戦3連覇(2~4年)、全国大学選手権2連覇(2~3年)に貢献。4年時は主将。サントリーでは入社3年目の95年に主将となり初の日本一。日本代表は93年5月のアルゼンチン遠征で初招集され、同年10月のウェールズ戦で初出場。当時のSHは堀越正己(早稲田~神戸製鋼)、村田亙(専修大~東芝~フランスのバイヨンヌ)ら実力ある選手がそろっており、通算キャップ数は8。サントリーでは3度の日本一になり、02年度限りで引退。キヤノン監督を経て現在はGM。現役時代は165センチ、62キロ。

52歳、現在横浜キヤノンイーグルスGM

広々としたエントランスにスーツ姿の彼は現れた。

右手に受付があるだけで、そこには誰もいない。

午前中から強い日差しが照りつけた日。その空間だけが外界とは遮断されたかのように涼しく、静けさに包まれていた。

東京都大田区。東急電鉄の下丸子駅から歩いて10分ほどにあるキヤノン本社。

永友は今、リーグワン・横浜キヤノンイーグルスのGMを務めている。

エレベーターで応接室に通されると、記憶をたどるインタビューは始まった。

1980年代から90年代にかけて、日本を代表するSHといえば早稲田から神戸製鋼に行った堀越正己であり、明治からサントリーに進む永友であった。

2人は95年度の全国社会人大会1回戦で対戦し、永友の劇的なペナルティーゴールで神戸の連覇を7で止める。

そして決勝まで進んだサントリーは後半ロスタイム、再び永友のゴールで初の日本一まで登りつめる。

順調に見えるラグビー人生は、挫折の連続だったという。

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編集委員

益子浩一Koichi Mashiko

Ibaraki

茨城県日立市生まれ。京都産業大から2000年大阪本社に入社。
3年間の整理部(内勤)生活を経て2003年にプロ野球阪神タイガース担当。記者1年目で星野阪神の18年ぶりリーグ制覇の現場に居合わせた。
2004年からサッカーとラグビーを担当。サッカーの日本代表担当として本田圭佑、香川真司、大久保嘉人らを長く追いかけ、W杯は2010年南アフリカ大会、2014年ブラジル大会、ラグビーW杯はカーワンジャパンの2011年ニュージーランド大会を現地で取材。2017年からゴルフ担当で渋野日向子、河本結と力(りき)の姉弟はアマチュアの頃から取材した。2019年末から報道部デスク。
大久保嘉人氏の自伝「情熱を貫く」(朝日新聞出版)を編集協力、著書に「伏見工業伝説」(文芸春秋)がある。