【ラグビー激動の1995〈6〉】「戦犯」増保輝則に問う 日本が歩む道は正しいのか

1995年度はラグビー界が大きく動いたシーズンだった。日本代表はW杯で惨敗。神戸製鋼の連覇は7で止まった。「僕のインタビューにタブーはない」。そう言って赤裸々に当時を明かした人がいる。元日本代表で神戸製鋼のウイング(WTB)として活躍した増保輝則。連載の最終回。(敬称略)

ラグビー

 

早大から神鋼へ 19歳3カ月代表入り、W杯3度出場

早明戦で突破する増保。大学時代は明大の元木に阻まれ準優勝2度(本人提供)

早明戦で突破する増保。大学時代は明大の元木に阻まれ準優勝2度(本人提供)

増保輝則(ますほ・てるのり)

1972年(昭47)1月26日、東京都生まれ。中学時代はサッカー部で左サイドバックとして東京都代表候補に選出される。中2からラグビーを始め、城北高3年の花園予選は決勝で国学院久我山に惜敗。高校日本代表入り。早稲田大に進み、戦後最年少となる19歳3カ月で日本代表入りする。大学選手権は準優勝2度で「4年間で3回も(元木)由記雄の明治に優勝を持って行かれた」と振り返る。94年に神戸製鋼入り。04年に引退し神戸製鋼監督に就任。現在はアドバイザーを務める。代表キャップ数は47。W杯は91、95、99年大会に出場した。

「バッシングがすごすぎた」145失点したW杯

「努力はしていないんですよ」

待ち合わせに指定されたのは東京・六本木。ANAインターコンチネンタルホテルのロビーだった。

夕暮れ時の喫茶室。ピアノの調べが流れていた。

淡いピンク色のシャツを爽やかに着こなしている。

「1995年の話を聞かせて欲しい」

そんな問いかけに、冗談なのか、本気なのか、分からないようなしぐさでこう答えた。

「ラグビーを中心に物事を考えるようなことをしてこなかったんです。

悪い言い方をすれば、僕にとっては遊びであり部活。

ワールドカップ(W杯)はサイクルの一環としか思っていなかった」

遠くを見つめる目をうかがう。決して冗談ではないようだ。

「かなりたたかれましたよ。

W杯で惨敗した戦犯としてね。

帰国した時のバッシングがすごすぎてね。

W杯って、こんなにスゲーもんなんだって。

事の重大さに初めて気が付いたんです」

1995年6月-。

小藪修が率いた日本代表は、南アフリカで開催された第3回W杯を戦った。

3戦全敗。

ニュージーランドには145失点の惨敗。

屈辱の歴史として語り継がれる。

あれから28年が過ぎた今、日本ラグビー界は劇的に変わった。

2023年、再びW杯へ挑む日本へ。

油断はないか。

教訓は生かされているか。

28年前の戦士が問いかけてくる。

これは当時の真実と、3大会連続でW杯に挑んだ男が伝えたいメッセージである。

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編集委員

益子浩一Koichi Mashiko

Ibaraki

茨城県日立市生まれ。京都産業大から2000年大阪本社に入社。
3年間の整理部(内勤)生活を経て2003年にプロ野球阪神タイガース担当。記者1年目で星野阪神の18年ぶりリーグ制覇の現場に居合わせた。
2004年からサッカーとラグビーを担当。サッカーの日本代表担当として本田圭佑、香川真司、大久保嘉人らを長く追いかけ、W杯は2010年南アフリカ大会、2014年ブラジル大会、ラグビーW杯はカーワンジャパンの2011年ニュージーランド大会を現地で取材。2017年からゴルフ担当で渋野日向子、河本結と力(りき)の姉弟はアマチュアの頃から取材した。2019年末から報道部デスク。
大久保嘉人氏の自伝「情熱を貫く」(朝日新聞出版)を編集協力、著書に「伏見工業伝説」(文芸春秋)がある。