【箱根story〈外伝〉青学大→GMOインターネットグループ】小原響がV4日後に渡米のワケ

箱根駅伝への出場がかなわなかった男は、なぜ海を渡ったのか―。

3月に青学大を卒業した小原響(22)は、今年1月の箱根駅伝から2日後に退寮。同7日の便で渡米し、PUMAのエリートチームのメンバーらとともに武者修行に励みました。

3月16日の競技会「The TEN」(米カリフォルニア州)では1500メートルに出場し、青学大記録となる3分42秒38をマーク。4月に入社したGMOインターネットグループではチームとしてニューイヤー駅伝優勝、個人種目では3000メートル障害に注力し、国際舞台での活躍を目指します。

箱根駅伝後に渡米した理由、異国の地で感じた思いとは。覚悟に満ちた言葉を「箱根駅伝story外伝」としてお届けします。

陸上

◆小原響(おばら・ひびき)2001年(平13)11月10日、宮城県多賀城市出身。仙台二華高から3000メートル障害を始め、19年(高校3年)に全国高校総体(インターハイ)出場。20年から青学大に進学。3000メートル障害では、21年(大学2年)日本選手権5位、23年(同4年)同選手権4位。大学3大駅伝では、4年時に全日本大学駅伝に出走し、4区区間7位。24年4月からGMOインターネットグループ所属。身長180センチ、体重60キロ。

1万メートル記録挑戦競技会で集団を引っ張る青学大・小原(右)(2020年11月23日撮影)

1万メートル記録挑戦競技会で集団を引っ張る青学大・小原(右)(2020年11月23日撮影)

1月5日に退寮「3月まで休んでいる暇はない」

――青学大での4年間について、率直にどのように振り返っていますか

良かったことも、そうではなかったこともたくさんありました。それほど強くなかった高校から強豪大学へ進学して、やっていけるか不安な思いもありながら、自己記録を伸ばすことができて成長を感じました。(3000メートル障害で)日本選手権に出場して、21年に5位、23年に4位となり、個人の成績については自分が思い描いていたような結果を出せたのかなと思っています。でも、1つの目標でもあった箱根駅伝には出場することができず、悔しく思います。ただ、最後は副主将としてチームを引っ張って、勝って終わることができたのは本当によかったです。

――箱根駅伝後にはすぐに町田寮を退寮されました。それだけ早い決断をされたのはなぜですか

4年間つらかったところもあるので、この3カ月間は休みたいという気持ちもありましたが、実業団でスポーツを続けさせていただくからには、自分も覚悟をもって取り組まないといけないと感じていました。これまで以上に結果が求められるステージになるので、覚悟を持とうという意味も込めて、早めに退寮することを決断しました。

――チームメートには驚かれませんでしたか

同期にはずっと前から話していましたが、後輩へは退寮日に寮を出ることを伝えたので「え?」と驚かれました。

米国で取り組んだ練習の様子(現地写真は全て提供:株式会社インプレスランニング)

米国で取り組んだ練習の様子(現地写真は全て提供:株式会社インプレスランニング)

――それまで青学大では、1月5日くらいに退寮する選手はいましたか

いや、いなかったです(笑い)。青学は4年生が1月末まで寮に残って、下級生への引き継ぎなどをするという方針がありますが、僕は新しい挑戦をするということで、原監督からも承諾していただいて、早めに退寮することになりました。

――原晋監督からはどのように送り出されましたか

「小原なら3000メートル障害で世界と戦える」と送り出していただきました。自分もそのつもりで渡米しました。

――あらためてですが、3000メートル障害を始めた理由や経緯を教えてください

高校から始めましたが、理由は2つあります。1つ目は自分が強豪校出身ではなかったので、1500メートルや5000メートルでインターハイ(全国高校総体)を目指すよりも、メジャーではない3000メートル障害のほうが全国に出やすいと思ったからです。2つ目は跳んだり走ったりする種目なので、筋力や腱(けん)が鍛えられるのではという理由からです。高校の監督へは実業団までやりたいと伝えていたので、今後の伸びしろを考えて、3000メートル障害を選びました。

米国遠征に臨んだ小原のオフショット

米国遠征に臨んだ小原のオフショット

――その後は青学大へ進学されました。駅伝や長距離種目に力を入れる印象がありますが、なぜ青学大に進学したのですか

その時は駅伝で勝ちたいという思いが大きくて。高校では長距離部員が6人そろわなくて、駅伝に1度も出ることができませんでした。大学では3000メートル障害をやりたい気持ちもありつつ、駅伝にも挑戦して箱根駅伝で優勝したいという思いもありました。やるのであれば、厳しい環境に身を置こうと思って、青学へ進みました。

――ただ、箱根駅伝の出場は1度もかないませんでした。そんな中、休む間もなく渡米したのは、実業団に入るまでの3カ月で何か試したいことがあったからですか

以前から自分が目指しているものが、みんなと違うのかなと感じていました。同期はマラソンやニューイヤー駅伝といった長距離のロードレースで活躍することが目標かもしれませんが、僕はトラックで世界と戦うと決めていました。ニューイヤー駅伝優勝をチームにとっても自身が成長することで良い刺激をフィードバックできると考えています。日本選手権が6月にあるので、3月まで休んでいる暇はないなと。年末までハードなトレーニングを積んできて、体がしんどいのは分かっていました。でも、やらないといけないことをやらないと、いつまでもその程度の選手で終わってしまうと、自分に言い聞かせて頑張りました。

2カ月以上の海外生活も「覚悟は決めていた」

――米国でトレーニングをすることが決まったのはいつ頃ですか

決まったのは昨年11月、12月くらいでした。GMOインターネットグループからお話をいただいて、ありがたい機会だと思いました。自分のレベルアップのためには、やりたい、やりたくないという以前に、必要なことだと感じました。自分も挑戦してみたいという気持ちがあったので、渡米を決めました。

米国で練習に励む小原(左)

米国で練習に励む小原(左)

――学生時代から、海外で経験を積みたいという思いは抱いていましたか

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岐阜県不破郡垂井町出身。2022年4月入社。同年夏の高校野球取材では西東京を担当。同年10月からスポーツ部(野球以外の担当)所属。
中学時代は軟式野球部で“ショート”を守ったが、高校では演劇部という異色の経歴。大学時代に結成したカーリングチームでは“セカンド”を務めるも、ドローショットに難がある。