7月1日、ガールズケイリン誕生から丸10年を迎える。

戦後、わずか15年で幕を閉じた「女子競輪」が、48年の時を経て復活。いまや早朝から深夜まで行われる公営競技の人気コンテンツの1つに成長し、選手は178人(6月20日現在)になった。誕生から10年、そして未来について、全4回で連載する。

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08年北京五輪の男子ケイリンで、永井清史が銅メダルを獲得した。00年シドニー五輪から採用された同種目のメダルは、日本勢初の快挙だった。さらに、12年ロンドン五輪から女子ケイリンの採用が決まった。日本が生んだ世界に誇るスポーツ「ケイリン」の女子への扉が開いた。この熱気を受けて日本各地の競輪場で、女子ケイリンが行われるようになっていく。

松戸競輪場の「LOVE9」や、弥彦競輪場の「すぴRits(スピリッツ)」のように、開催を盛り上げてバンクを彩るイメージキャラクターが自ら自転車を駆って競う。また、自転車競技に打ち込んでいた学生や社会人レーサーらによる、トップレベルのエキシビションレースも全国の競輪場で開催された。目の肥えた競輪ファンの前で展開される熱戦は、注目度が上がっていく。徐々に“女子競輪”つまり、ガールズケイリン誕生への機運が高まっていった。

そして10年。ついに競輪学校(現競輪選手養成所)の募集に、女子の項目が“復活”する。全国各地から集まったプロの自転車選手を目指す女子36人が「ガールズ1期生」として合格を果たした。だが、長い時を経て復活した女子の訓練生活は、生徒、さらには学校側にとっても前途多難なものだった。

◆女子競輪 49年(昭24)から64年まで開催された。JKAの年間記録集によると、49年の第2回日本選手権から女子優勝者の記載があり、50年からの高松宮妃賜杯、さらに全国都道府県争覇競輪(現全日本選抜)、競輪祭など、現在のG1に相当する特別競輪が行われていた。ただ、売り上げ不振などの理由から廃止が決定。ガールズ4期生(108期)の福田礼佳(26=熊本)は、祖母が選手だった。