青森山田の優勝で幕を閉じた全国高校選手権に、セルジオ越後氏(76)が物申した。1972年に日本リーグ藤和不動産(現湘南)入りするためにブラジルから来日し、長く選手権のテレビ解説も担当。多くの高校と選手を見てきた同氏の言葉は激辛だった。

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青森山田は強かった。ただ、関東第一が準決勝を辞退するなど、新型コロナの影響でいろいろと大変だった。最後まで大会を終えられたのはよかったけれど、100回大会が少し特別なものになったのは残念だ。

試合終了間際の青森山田も残念だった。コーナーにボールを運んで時間稼ぎ。1点や2点のリードじゃない。4点リードしていて必要があるのかね。まさかベンチの指示ではないと思うけれど、後味の悪いものになってしまった。

決勝戦で大差がついたのには、私立校と公立校の差もある。青森山田がというわけではないけれど、多くの私立校が全国から特待生を集めて、練習環境を整える。中にはJ3のクラブ以上の施設の学校もある。

一方、公立校の多くは地元出身者が中心。特待生制度もない。もちろん、私立のやり方が悪いわけじゃない。強いチームを作るのには必要でもある。ただ、環境の違う私立と公立が対戦するのは公平かな。いっそ「公立校大会」と「私立校大会」を分けることを考えた方がいいかもしれない。

最初に高校選手権を見た時は、本当に驚いた。僕がプレーする日本リーグよりお客さんが多いんだから。それも高校の部活。世界を見ても、学校の部活でスポーツをしている国は数少ない。まあ、これが日本のスポーツ、教育制度なんだと知って、納得したけど。

それにしても、70、80年代の人気はすごかった。大会終了後、高校選抜の合宿があるんだけど、その練習にファンが殺到した。Jリーグができる前、間違いなく日本サッカーを引っ張ったのは高校だったね。

強いチームには、いい監督がいた。「侍」のようなね。中にはサッカー素人もいたし、当時はライセンスもなかったけれど、みな工夫し、努力し、チームを強くした。マイクロバスのハンドルを握りながらね。

大会中に島原商、国見の小嶺忠敏監督が亡くなったけれど、浦和南の松本暁司監督(19年死去)や鹿児島実の松沢隆司監督(17年死去)も亡くなっている。「侍」が少なくなったのは寂しいね。

すごい選手も出てこなくなった。(82年度優勝の)清水東の「三羽烏(がらす)」はみな代表で活躍したし、(91年度優勝の)四日市中央工の小倉隆史たちも卒業後すぐに活躍した。帝京や清水商も多くのJリーガーや日本代表を出している。たくさんの「怪物」がいた。

今は、ほとんど「怪物」がいないね。最後は(08年度準優勝の)鹿児島城西の大迫や(09年度準優勝の)青森山田の柴崎かな。もう10年も高卒ですぐ活躍する選手が出ていない。Jクラブ内定者は多いけど、受け皿が(Jクラブ増で)大きくなっただけ。J1で活躍する選手が出てこないと。

確かに全体的なレベルは上がったかもしれない。うまい選手は増えた。それでも、大会後も注目されるような「怪物」はいない。青森山田の松木はいい選手ではあるけれど、これからが大変。FC東京に行って活躍できるのか。厳しい戦いは、これからなんだよ。

大会を見ていると、プレーしているのは選手ではなく生徒。文科省の管轄で行う選手権だから、仕方ないな。選手はJクラブのユースに行ってしまうから。

登録制度も考えないと。高校とユースの二重登録を認めるとかね。ただ、高体連の中でやっていては、サッカーだけ特別扱いは難しい。だったら、野球のように「高サ連」を作ることだね。日本協会が直接手を出せば、いろいろなことができると思う。

大会は100回目。戦争での中止もあるから、100周年の日本協会よりも歴史は古い。ただ、その間に時代は変わった。サッカー界も変わった。高校サッカーの役割も昔とは違う。今は、Jリーガーの供給源にならないと。Jユースもあるけれど、多くの子供は高校に行く。Jリーグを支えているのは高校なんだ。

選手供給源として高校サッカーを改革しないと、Jリーグがだめになる。代表も勝てなくなる。100回はゴールではなく、次の100回へのスタート。今一度、高校サッカーを考えるにはいい機会だと思う。(日刊スポーツ評論家)

後半、ゴールを決める青森山田・松木(右から2人目)(撮影・横山健太)
後半、ゴールを決める青森山田・松木(右から2人目)(撮影・横山健太)