コロナ禍の特別なシーズンとなった今季、川崎フロンターレは圧倒的な強さで、首位を独走し、4試合を残しての最速優勝を飾った。

社名を「富士通川崎スポーツマネジメント」から、チーム名と同じ「川崎フロンターレ」に変更してから20年。スポーツの根付かない街といわれた川崎で愛されるクラブに進化した。社名変更を決断し、強豪クラブの礎を築いた武田信平元会長(現日本アンプティーサッカー協会理事長)の地域密着への思いを「川崎の街がブルーになった」と題して3回連載する。

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武田氏が社長に就任した00年12月、川崎Fは「全然無名で、話にならない状態」だった。川崎といえば、スポーツの根付かない街。92年にはプロ野球ロッテが千葉に移転し、翌01年にはヴェルディ川崎が東京に移転することも決まっていた。

地元が盛り上がるすべを考え抜いた末、武田氏は2本の柱を掲げた。「スタジアムを満員にすると、街が盛り上がっていくのは間違いない。そのために必要なのは、地域密着活動をどんどんやることと、強くなること。この2つを両輪で回していかないといけない」。

00年にわずか1年でJ2に降格し、そのまま4年間を戦った川崎Fだったが、生え抜きの成長と補強の成功で、05年にJ1再昇格を果たした。強化が結果に表れるのと時を同じくして、武田氏はスタジアムの満足度も高めていった。

「米国で野球やアメフトを見に行くと1日遊べる」という点にヒントを得ると、競技場内外に来場者が楽しめるポイントを設けていった。今でこそ本拠・等々力はイベントやグルメの充実したイメージがあるが、場外イベントスペース「フロンパーク」が誕生したのは09年。キッチンカーや体験コーナーに地元色を取り入れながら、お祭り会場のようなスタジアムを作り上げていった。

中でも有名になったのは、川崎市に拠点を構えた春日山部屋の“ちゃんこ鍋”だ。「最初に手を結ぶまでに、何度も何度も通った。だんだん分かってもらえて、競技場に力士を呼んで綱引きをしたり、ちゃんこ鍋を振る舞ってもらったりした」。バラエティー豊かなハーフタイムショーを用意したり、市にゆかりのある芸能人をゲストに招くなどして、地元を耕しながら、愛されるクラブに成長していった。

08年10月からは、等々力陸上競技場改修の署名活動も行った。集まった数は約22万。隣接する野球場にも改修の声が上がっており、資金面でも困難を極めたが、武田氏らの熱意は市を動かした。15年には現在のメインスタンドが完成。ファミリー席などの新しい席種が用意されたが、これらはプロ野球・広島のマツダスタジアムを参考にしたという。きれいで快適なスタジアムは、年を重ねるごとに来場者数を増やしていった。【杉山理紗】