元日本代表監督のイビチャ・オシム氏が1日、80歳でこの世を去った。哲学的な言い回し、独自の練習法などで「日本代表の日本化」を目指した知将。日本への愛も深く、脳梗塞で倒れて退任後も、その思いは多くの関係者に受け継がれている。数々の証言から、その功績を見つめ直す。

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2007年の夏。JRと新幹線を乗り継ぎ約2時間。千葉の舞浜駅から群馬の上毛高原駅まで。3連覇を逃したアジア杯の戦いを終えたオシムさんは1人、電車に揺られながらやってきた。

群馬・昭和村を拠点に活動するジュニアユースサッカーチーム「FC KRILO(クリロ)」。ボスニア語で「翼」を意味するチーム名は、オシムさんが名付け親だ。チームの代表、藤井吉治さん(65)とオシムさんの出会いは07年8月。同村につくられた「千年の森スポーツセンター J-Wings」のオープン記念イベントだった。

スポーツ文化の振興や普及活動を行ってきた藤井さん。ボスニア・ヘルツェゴビナでサッカークラブを立ち上げた知人を介し、オシムさんに来てもらえないかと依頼。同国の文化を理解する催しも同時に行う予定だった。日本代表監督としての活動ではない“ボランティア”だが、オシムさんは快諾。その胸には、サッカーへの熱い思いと、故郷への深い愛があった。

午前中は、約150人の子どもたちによる質問会を開催。「リフティングは、サッカーがうまくなる上で必要なものではない」。オシムさんは独自の考えを惜しみなく話してくれた。代表監督の厳しい顔とは違う、やわらかい笑みを浮かべながら。夜は講演会を行い、集まった計80万円をサラエボへの寄付金にした。

雄大な山に囲まれ、ブルーベリーが実る昭和村の光景。「ボスニア・ヘルツェゴビナに似ている」。オシムさんは故郷に重ねていたという。生い茂るこんにゃく芋の葉を見て「これは何の植物だ?」とたずね、うどんを好んで食べた。気さくな人柄だった。

「FC KRILO」が出来たのは10年3月。命名をお願いすると、翼を意味する名前が授けられた。活動拠点の「J-Wings」になぞらえて「世界、夢に向かって羽ばたく翼」という意味が込められた。

東日本大震災が起きた11年。福島・双葉町のチームを招き交流会を行うと、オシムさんはサラエボからテレビ電話をつなぎ、さまざまな話をしてくれた。「くじけるんじゃないぞ」。困難に立ち向かう子どもたちへ、優しく背中を押した。

日本のサッカー界を変えた名将は、さまざまな場所へ足跡を残し、たくさんの人に思い出を残した。かけがえのないその全てが、未来への財産だ。【磯綾乃】(おわり)

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