マリノスの歴史を背負ったMF水沼宏太(32)が、全得点に絡む活躍でチームに優勝をもたらした。Jリーグ発足時に活躍した貴史氏(62)の息子としてクラブの下部組織で育ち、回り道をしながらも20年に古巣に復帰。3年目の今季、多彩なクロスで攻撃をリードして優勝に貢献した。ユニホームの背中に輝く「MIZUNUMA」の文字。親子2代の「マリノス愛」が花開いた。

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試合が終わると、水沼の目に涙があふれた。ベンチ前に座り込んで号泣した。「子どもの頃からの夢。あきらめずに、頑張ってきてよかった。幸せです」。最高の笑顔が涙にぬれた。

自分自身のサッカー人生同様、苦しんでつかんだタイトルだ。優勝目前の足踏み、嫌なムードが漂った。それでも、練習中から誰よりも声を出し、仲間を鼓舞した。この日も自らの足で優勝を手繰り寄せた。

正確な右クロスから先制点を導くと、絶妙のコースへのFKで2点目を生み出し、右足の正確なクロスで3点目をアシストした。多彩なキックで攻撃をリード。精神的な支柱としても、プレーの面でも、チームを優勝へ導いた。

「マリノス愛」は誰よりも強い。3歳の時、Jリーグ開幕戦を戦う父をスタンドから応援した。5歳の時には木村和司引退試合に、自身の引退試合にもなった父とユニホームを着て入場した。よちよち歩きのころから、遊び場は横浜・獅子ケ谷の練習場。中学、高校もチームの下部組織だった。

日本リーグ(JSL)時代に日産自動車の2年連続タイトル独占に貢献したクラブの象徴的存在、貴史氏の2世としてユース所属の07年にJデビュー。08年、期待とともにプロ契約した。周囲は「貴史の子」として見る。父とも比べられる。この日も「父は偉大な先輩で、誇らしい存在」と話したが「2世」としての重圧もあったはずだ。

出場機会に恵まれずに10年にJ2栃木に移籍。その後もクラブを渡り歩いた。「もう横浜に戻ることはない」とも思っていたが「信じられないオファー」が届き、20年に10年ぶりとなる復帰。もっとも、2年間は交代出場が多く、満足な活躍もできなかった。

今シーズン前、決意を固めて父に相談した。ユニホームの「KOTA」の名前を「MIZUNUMA」に変えたいと。J元年に横浜を支えた名で、J30年目を戦うためだ。もちろん、父は大賛成。この思いが、今季の好成績につながった。

日本代表に選出され、史上初めて親子2代での国際Aマッチ出場も果たした。横浜でも主力としてJリーグ優勝に貢献。父は優勝した95年はシーズン途中で引退し、頂点に立った瞬間は経験していないから「父超え」にもなる。

貴史氏はこの日、川崎Fの試合を解説していた。試合後に横浜の試合をチェックし「3点目のアシストはよかった。普通は浮かしたくなる」と解説者らしく言った。そして父の顔で「自分が辞めた時に優勝して、子どもが30年目で優勝してくれ感慨深い」と目を潤ませ「どんな困難も乗り越えてきた宏太はすごい。本当に誇らしい」と言った。

横浜は鹿島とともに降格未経験。特に横浜は日本リーグ1部時代から40年間トップリーグにいる。その栄光の歴史に、父に続いて息子が「MIZUNUMA」の名を刻んだ。【荻島弘一】