ワールドカップ開幕まであと3日。元アルゼンチン代表FWのハビエル・サビオラ氏(36)が、母国の後輩FWリオネル・メッシ(30)について語った。指導者研修のため暮らすアンドラから、世界の話題をお届けする企画「ズドラーストヴィチェ!」に登場。8強入りした06年ドイツ大会やバルセロナでもチームメートだったメッシにW杯優勝の夢を託す。【取材・構成=木下淳、山本孔一通信員】
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日本でも人気の高かったサビオラ氏は今、アンドラにいる。フランスとスペインの国境、ピレネー山脈にある人口8万弱の小国。引退後、指導者資格最高位のUEFA(欧州サッカー連盟)プロライセンスを取得するためアンドラ連盟に入った。バルセロナから車で3時間。「現役時代に5回ほど来て気に入っていたんだ。ずっと家族と落ち着ける場所を探していた」。最近は主に育成年代を指導している。
初めて“監督目線”で見るW杯。アルゼンチンの優勝を信じている。「難しい大会だけど、信頼は揺るがないよ。メッシだけでなくディマリアもイグアインもアグエロもいる」。指導者の駆け出しとして指摘するならば「前線の質と層が問題ない分、守備をもっと堅固にしなければいけない。最近は残念ながら(W杯と南米選手権で)準優勝が続いたけど、今回が壁を破って飛躍する時」と言った。
キーマンは間違いなくメッシ。サビオラ氏と経歴は重なる。身長はサビオラ氏が169センチ、メッシが170センチ。前者が01年ワールドユース(現U-20W杯)で得点王とMVPに輝き優勝に導けば、後者も05年大会で優勝、得点王、MVPを総なめにした。五輪もサビオラ氏が04年アテネ、メッシが08年北京で金メダル。比較する前に、なぜアルゼンチンは宝庫なのか。「サッカーに最も情熱を注ぐ国だから。そこで5歳の時から20歳や30歳とプレーしていた。その時以上に、体格差を感じる場面はないからね。一時はバティストゥータやクレスポといった怪物が評価されたけど、今は知性さえあれば戦える。アイマール、メッシ。肉弾戦を避けて勝つ方法を学び、大きな相手に『小さな選手を止めるのは大変だ』と言わせてきた」と胸を張った。
中でもメッシは別格。バルセロナ時代、まだ下部組織にいたメッシに「調子はどうだ」と声をかけ、アイスクリームをおごった。負傷で入院した時は、病室までユニホームを届けた。「元気づけたかった。小さなころからプロになると強く思っていた選手だったし、後に最高のプレーで恩返ししてくれた」。3月に通算600ゴール(代表61得点+クラブ539得点)到達。「5度のバロンドール受賞に600点。歴史上でも唯一無二だ。指導を始めて再確認したけど、彼は育てられない。機械以外に、人間として探すのも不可能だろうね。長所は全部。すべての面で抜きんでている」。
この2人がW杯に同時出場したのは1度。06年ドイツ大会だった。サビオラ氏が先発でメッシがスーパーサブ。「自分にとってW杯は誇り。最も重要で貴重な経験だった。世界中が一挙手一投足に注目し、ミスが許されない。最大限の集中で母国を代表して戦った喜びと責任に、あふれていたよ」。ともに得点して8強まで進んだが、戦術的理由で2人とも出場しなかった準々決勝。開催国ドイツと当たり、PK戦で敗れた。
当時19歳のメッシは、宿舎でテレビゲームに負け、コントローラーを窓から投げて壊したほど負けず嫌いだった。あれから12年。サビオラ氏はドイツを最初で最後にW杯と縁がなかったが、夢は6歳下の後輩に託した。「サッカーの国で生まれた者として、優勝を願う。そこに世界一の選手がいる恩恵は大きいよ」。メッシも「最後のチャンス」と公言してW杯を迎える。
◆メッシとW杯 数々の栄光を手にしながらW杯優勝には縁がなく、今回が4度目の挑戦。18歳で迎えた06年、エースとして臨んだ10年とも準々決勝で敗れた。14年は主将として引っ張り、4得点でMVPに輝いたが、決勝でドイツに屈した。15、16年の南米選手権も準優勝に終わると1度は代表引退を表明。後に発言を撤回して、エクアドルとの南米予選最終戦で3得点し、敗退危機にあったチームを12大会連続17度目のW杯に導いた。大会中の24日に31歳の誕生日を迎える。
◆ハビエル・サビオラ(Javier Saviola)1981年12月11日、ブエノスアイレス生まれ。リバープレートの下部組織から16歳でトップ昇格。当時監督はJリーグ初代得点王のラモン・ディアス氏。マラドーナと同じ18歳でリーグ得点王になり、01年にバルセロナと6年契約。入団後3年間で計44得点と活躍した。07年にRマドリードへ移籍した後は5カ国を渡り歩き、16年1月に古巣リバープレートで引退した。代表通算39試合11得点。日本には代表戦やクラブW杯で来日。軽快な動きから愛称は「コネホ(ウサギ)」。家族は夫人と2子。右利き。62キロ。