「ショックと恐怖感を覚えています。相手が凶器でも持っていたら、どんなことになっていたかと思うと」と、被害者は警察に話した。この被害者とは、3月10日のバーミンガム対アストンビラ(2部)で観客に襲われたジャック・グリーリッシュ。イングランド中部における「ミッドランズ・ダービー」の1つである両軍の対戦は、ピッチ内外での「火花」が珍しくはない地元ライバル対決ではある。しかしながら、試合中にバーミンガムのファンがピッチに乱入し、アストンビラMFの側頭部に背後からパンチを見舞った事件は、異常事態以外の何ものでもなかった。

事件を起こした27歳の男性ファンには、クラブから永久追放処分を言い渡され、他の試合会場へも今後10年間の立ち入り禁止が命じられた。加害者としては約3カ月半の禁錮刑も言い渡されている。識者間では、バーミンガムに対してもポイント剥奪や無観衆試合といった処分を科すべきだとする声がある。再発の可能性を最小限に抑えるべく、厳罰が求められているのだ。

1970~80年代には、いわゆる「フーリガン」問題も多発した国だけに、過去にもファンと選手の衝突がなかったわけではない。だが、今回のようなケースは、選手に危害を加えた罪は重くとも、暴力行為に走った行動に一種の「軽さ」を感じさせる。SNSで差別や脅迫まがいの発言まで言いたい放題の世代が、同様の感覚で「やりたい放題」といった様子だ。グリーリッシュが殴られた現場では、加害者に拍手喝采を送った観客もいたとされる。その中の誰かが携帯で撮影した映像を投稿でもすれば、加害者は勘違いも甚だしい仲間内で英雄気分になれるのかもしれない。ピッチ上で対戦相手の選手に接触しようとしたファンは、同日のアーセナル対マンUでも現れた。

「凶器」への不安も、やはり近年の傾向と言えるだろう。具体的は「刃物」。テロリストに狙われかねないサッカーの試合会場では、入場時に手荷物検査が行われるようになってはいる。記憶に新しいところでは、2カ月ほど前に、くしくもアストンビラのホームゲームでナイフ没収例が伝えられた。だがこれは、試合観戦者に占める割合も多い世の若い男性陣に、ナイフを持ち歩く者が増えている問題を示す例でもある。BBCの報道によれば、昨年3月までの1年間で発生した刃物による殺人事件は、46年以来最多の285件。被害者の4人に1人が18~24歳の男性だとされる。さらに若年化が進む傾向もみられる。

この背景の1つに、テロリスト対策といった国家レベルでの安全確保にリソースが割かれる一方で、一般レベルで警察の人員と予算が削減されている事実があることは間違いないだろう。9年前からの保守党政権下(連立政権期含む)では、警察職員が延べ2万人以上も削減され、筆者の住む西ロンドンでも、街中をパトロールする警官を見かける機会がめっきり減った。当然、職務質問でナイフ所持が暴かれる頻度も減少。どうせ見つかりやしないと、ナイフを持ち歩く若者が増えても不思議ではない。当初は英国の内務大臣として警察の人員削減を敢行したメイ首相による、「ナイフ事件の増加と直接的な因果関係はない」という発言は説得力を欠く。

もっとも、「ギャング文化やドラッグ売買といった、ナイフ事件の背景を理解して根本的に対処すべき」とする首相の意見には一理ある。そこで、若者にナイフの放棄や生活態度の改善を呼びかける影響力の持ち主として、協力が望まれるのがプレミアリーグの有名選手たちだ。反抗的になりがちな年頃も、憧れのサッカー選手のメッセージであれば耳を傾けると思われる。

庶民最大のスポーツでトップレベルに上り詰めて富と名声を手にしたスターの中には、自身が恵まれているとは言い難い環境で育った選手も少なくない。マンCのFW、ラヒーム・スターリングもその1人。若者向けファッション・ブランドも持つトッテナムのMFデレ・アリなどは、クラブの垣根を越えたアピールも可能に違いない。ワトフォードのFWで、19歳当時のけんかで負ったナイフによる傷痕を左頬に持つアンドレ・グレイのように、かつての仲間が獄中生活を経験している選手もいる。政府は内務省を通じてリーグに正式な協力を要請する用意もあるようだ。

その動きが伝えられた3月7日、筆者は夕方にチェルシーの試合に向かっていた。混雑する地下鉄の乗り換えを避け、途中の駅から20分ほどの距離を歩いての会場入りがいつものパターンだが、この日は広範囲の区間で歩行者も通行止め。駅まで戻って地下鉄に乗り直し、スタンフォード・ブリッジの最寄り駅まで移動することになった。後で確認してみると、通りを入った袋小路で10代の少年が刺殺され、犯人を捜索中だったことが判明した。ロンドン市内では、1週間で5件目のナイフによる殺人事件だった。

実際に国を上げて取り組みが行われれば、それに越したことはない。しかし、肝心の政府は期限が迫るEU離脱騒動の真っただ中。首相の離脱案を巡って議会の足並みさえそろわず、あきれた国民の間では「ハウス・オブ・コモンズ(庶民院)」ならぬ“ハウス・オブ・フールズ(愚民院)”と呼ばれている状態だ。となれば、わが身は自分で守るべく、庶民の「英雄」たちと、その選手たちを抱えるプレミアの各クラブは率先して動くべき。定例となっている学校訪問などの地域奉仕の一環として、若者たちにナイフを捨てさせる啓発活動にも力を入れるべきだ。幸い、スターリングなどは、「何とかして、若者がナイフを持ち歩いて傷つけ合うような行動を止めさせないといけない」と、7日の時点でメディアにコメントを寄せてもいた。その後、図らずも選手である自分たちも、ピッチ上でナイフによる傷を負いかねないと感じさせる事件が起こったのだからなおさらだ。【山中忍】

◆山中忍(やまなか・しのぶ)1966年(昭41)生まれ。青学大卒。94年渡欧。第2の故郷西ロンドンのチェルシーをはじめ、サッカーの母国におけるピッチ内外での関心事を時には自らの言葉で、時には訳文としてつづる。英国スポーツ記者協会及びフットボールライター協会会員。著書に「勝ち続ける男モウリーニョ」(カンゼン)、訳書に「夢と失望のスリー・ライオンズ」(ソル・メディア)など。