[ 2013年12月28日14時19分

 紙面から ]2013年7月2日付本紙1面<連載第4回・最終回>

 「発信したことはすべて本当だし、恥じることはないから、言っちゃうんですけど…。そうするとしゃべり過ぎだと言われる。どんだけしゃべっても、ちゃんとは伝わらない。でも、黙ってたら黙っていたで『取材拒否』とか言われる」

 12年10月9日午後9時30分、横浜市内の喫茶店で向き合った薄化粧にメガネ姿の安藤は、唇を少しかみながら、あきらめたように言った。12-13年シーズンの欠場を発表した日、もう何も期待していなかった。

 9カ月後の13年7月1日、全国に衝撃が走った。「安藤美姫、出産していた」。テレビ番組で4月に女児を産み、同時に競技者としての復帰を明かした。「発信したことはすべて本当」だったが騒動は過熱した。

 ショーのために博多入りしていた安藤は、そこから数日間、ホテルに監禁状態となった。ロビーにはバッグにカメラを隠した取材者がいて、部屋から出られない。幼子とともに、食事はルームサービス。「お騒がせしてすいません」。平静な声で謝られたのは、心ない報道で「第3、第4の父親候補」が浮上しているころだった。名誉毀損(きそん)にもなりそうな過激さに、精神的に不安定になってもおかしくない状況。なぜさらりと謝れるのかと不思議だったが、すべては「慣れ」だったのだと思う。それも不幸な。

 高校生でアイドルのようにフィギュアブームを起こし、06年トリノ五輪以降に「みんなが去っていった」と不信を募らせた。だから、冒頭の発言はあきらめと覚悟を含んでいた。元コーチのモロゾフ氏との関係など、関心を集めることに慣れてしまっていた。出産への異様な報道さえ、未知のものではなかったのだろう。

 ではなぜ、それでも彼女は出産を告白したのか。冒頭の発言を聞いた時、安藤に会うのは2回目だった。関係が薄い人間に「来年で引退します」という重要な発言もした。話していた理由は「1回目に会ったときに、丁寧にあいさつをしてくれたから」。それだけだった。むしろその単純な訳は、理由のなさを感じさせた。直感で判断したと。そして、その言動こそが余計に臆測を生んできた-。

 例えば、12年7月に「安藤が意味深発言」という報道があった。単文投稿サイトのツイッターに「I

 born

 to

 die」とつづったからだ。直訳すれば「死ぬために生まれてきた」。当時はコーチも決まらず、先行きが不透明な時期。刺激的な言葉に色めき立った。

 だが、真相は「英語って、直訳じゃない意味がある」「『大変』とか『超ダウン』というニュアンスだった」。報道に驚いたが、「日本語でちゃんと言えば良かったが、そうするとそれにも突っ込んでくる人がいる。あえて説明をしなかった」。だから、想像力を餌にする推測が氾濫した。

 現役最後の試合となった全日本選手権でも、それはあった。直前に各新聞に載った記事は「母としての挑戦」がテーマ。ソチ五輪最終選考会前に練習を公開していた。それまで安藤が希望していたのは「スケーターと、母であることは一緒に書かないでほしい」。元世界女王の意地だと思った。しかし、直前に母であることを語った告白を疑問に感じた。同情票を買おうとしているのではないかとまで勘ぐった。実際、試合前の取材では「会場に来たら母ではなく競技者」と話したが、納得できなかった。母という「言い訳」を大一番を前にしているのでは。だから、試合後に「競技者として、本気で五輪を目指していたのですか」と聞きたかった。その覚悟を知りたかった。

 だが、実際は聞かなかった。理由は最後の最後に競技者であったから。「最後は『ジャンプの美姫』で終わりたかった」。その一言に勘ぐりは解消された。五輪出場には優勝しかないと、最高難度の連続ジャンプに挑み、散った。スケート人生の最後に、彼女はスケーターだった。

 安藤の言動は、時に「潔さ」になり、時に「あざとさ」にも映る。ただ、それはあまりに直情的だっただけに、人間の喜怒哀楽として魅力的に感じたのも確かだ。接したのは2年弱。もっと多くの声を聞きたかったと思う。【阿部健吾=12~13年担当】(おわり)