[ 2014年2月1日7時31分

 紙面から ]10年バンクーバー五輪

 フリーでトリプルアクセルを決める浅田<連載:浅田真央

 悲願女王へのラストダンス第2回>

 10年バンクーバー五輪以降、1つの数字が浅田真央の頭に呪縛のように覆っていた。

 「47」

 それは同大会時の自分の体重。そして何より、ギネス記録となった1大会で3度のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を決めた時のベスト体重-。ずっとそう思っていた。だから「そうじゃないとジャンプが跳べなくなる」。成功体験は、当時20歳の浅田に思わぬ形で足かせとなった。

 10年9月から師事を仰ぐことになった佐藤信夫コーチの元で、基礎からスケート技術を学ぶ日々。ジャンプの不安定さをなくすため、跳ぶ直前の上下動をなくす特訓を続けていた。練習方法でも、何分間かの短く激しい練習と短い休憩を交互に入れるインターバルトレーニングや、練習時間をそれまでの6時間以上から3時間半ほどに大幅に短くし、短時間で質を求めるスタイルに変えるなど、進化を目指した。

 だが、思うような結果は試合で出ない。佐藤コーチは「3年はかかる」とみていたが、愛弟子は知らず知らずのうちに、焦りを募らせた。跳べたジャンプが跳べない。10-11年シーズンの成績はNHK杯8位、フランス杯5位、全日本選手権2位、4大陸選手権2位、世界選手権6位-。

 その悩みの矛先は体重に向かった。「軽い方が跳べるはず。バンクーバーの時もそうだった…」。体つきが変わる20代前後なら微量な体重増は当然だが、それを跳べない理由に求めた。何より楽しみにする食事に「制限」が増える。白米を玄米に、お手製弁当は野菜中心に。ただ、それでも跳べない。余計に悩みは深くなった。

 体重減で確かに体は軽くなるが、逆に跳ぶために必要な筋肉も落ちる。100グラム違うだけでジャンプへの影響があるという選手もいるフィギュアの世界。調子が上がらない、だから余計に練習に打ち込む、それでもできない、それが焦りを募らせる。悪循環にはまった浅田に転機が訪れるのは、11年11月のある大きな決断を待たなければならなかった。【阿部健吾】(つづく)このニュースの写真