59人の思いを背負い、諦めの悪い走りを見せる。来年1月の第99回東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)で総合5位以内を狙う帝京大の取材会が15日に開かれた。前回大会は4年生6人を擁し、往路2位で総合9位入り。しかし、現4年生(当時3年)で出走したのは北野開平主将(4年=兵庫・須磨学園)のみで、新チームは“最弱”“谷間の世代”とやゆされることもあった。葛藤し続けてきた4年間。北野主将は「1人1人が諦めの悪い走りをしたい」と誓った。

   ◇   ◇   ◇

「4年間、ずっと言われ続けてきたので、キツかったです」

北野主将は回想する。「ハズレの世代だね」「1つ上はすごかった」。いつも比較されてきた。どこからか聞こえる声は、自分へ向けられている気がした。

今年1月2日の箱根駅伝。翌日に6区で出走予定だった北野は、テレビで往路のレースを眺めていた。

1区で8位スタートを切ると、エースが集う2区では中村風馬(当時4年)が5位に押し上げた。

そのシーンを見て、もう気が気ではない。「これは絶対、1位か2位で来るな」。予想は的中した。続く3区の遠藤大地、5区の細谷翔馬(ともに当時4年)がそろって好走。史上最高の往路2位で芦ノ湖へたどり着いた。

北野は胸の鼓動が早まるのを感じた。「前日なんですけど、心拍数がかなり高くて…」。浅い眠りのまま、夜は明けた。

迎えた復路。6区で走るために、1年かけて準備してきた。自信はあった。しかし、極度の緊張は、練習で養ってきた感覚をまひさせた。

「自分が見えないというか、もう自分じゃなかったです」

結果は59分59秒で区間16位。チームは4位に後退し、波に乗れないまま、復路は17位に沈んだ。

「やっぱり、悔しさは大きかったです」

その責を負い、高校までは務めたことがなかった主将に立候補した。

しかし新4年生は、21年の出雲駅伝、全日本大学駅伝で1人も出走経験がなく、22年の箱根路も北野が走っただけ。優しい性格の選手も多く、練習では締まったムードにならないこともあった。

夏前には北野自身も左足底腱膜の状態が悪化し、手術に踏み切った。8月の夏合宿は別メニューでの調整を余儀なくされた。

「チームを変えようと思っていたのに、どうすればいいんだろうって」

言葉で引っ張ることしかできない自分が、もどかしく思えた。

ただ、そんな状況にあって、チームに変化が見て取れるようになった。下級生から積極的に声が上がるようになり、学年間の壁を感じなくなった。それは4年生が、新チーム始動時から「良い雰囲気のチームにしようね」と決めていたからこそ、生まれた空気感だった。

3年生の末次海斗(鳥栖工)は「4年生が良い雰囲気をつくり上げてくれた」と実感を込める。山田一輝(4年=佐賀・白石)も「強い選手が抜けて大変だった中、(北野)開平がチームの方向性を変えてくれた」と言う。

北野をはじめとした最上級生のおかげで、チームはのびのびと力をつけ、今年に入って35人以上が自己記録を更新した。

苦しんだ主将は、応えてくれた下級生に感謝する。

「歴代の堅苦しいチームではなくて、1年生もどんどん積極的についてきてくれたり、引っ張ってくれたりしました」

そして、ちょっと間を置いて、こう言った。

「今年こそ、諦めの悪いチームなのかなって」

来春の箱根駅伝にエントリー入りした16人のうち、4年生は4人。樋口雄平主務(4年)を除く、7人の4年生がメンバー外となったが、今も12月の記録会へ向けて練習を重ねている。箱根を走る権利を失ってもなお、1人1人が今の自分を諦めていない。

「4年間、ずっと言われ続けてきたので、キツかったです」

最弱。谷間。ハズレの世代。そんな声と向き合ってきた北野の言葉は、こう続いた。

「でも逆に、そう言われ続けてきたから、ここまで来ることができました」

はっきりとした口調で、言い切った。

八王子の小高い練習場には「世界一諦めの悪いチームへ」と書かれた赤色の横断幕が掲げられている。

前回の雪辱を果たすため。抱えてきた葛藤を乗り越えるため。

ニュースタイルの帝京大はつないでいく。チーム59人、4年生12人の諦めの悪さが詰まったタスキを。【藤塚大輔】