今も耳に残るNHK北出アナウンサーの絶叫。「飛んだ、決まった!」。1972年2月6日、ちょうど50年前の札幌五輪、スキージャンプ70メートル級(現ノーマルヒル)で笠谷幸生が金メダルを獲得した。金野昭次が銀、青地清二が銅と表彰台を独占した「日の丸飛行隊」に、胸が躍った。

東京の小学生に札幌五輪は遠かった。知っていたのはトワ・エ・モワの「虹と雪のバラード」ぐらい。あの日、冬季五輪を知った。初めてジャンプという競技に触れた。しばらく「笠谷ごっこ」がはやったほど、子供心にも強烈だった。

それまで、冬季五輪で日本が獲得したメダルは、56年コルティナダンペッツォ大会アルペンスキー男子回転の猪谷千春の銀だけ。金メダルはなかった。だからこそ、ジャンプ陣の表彰台独占は衝撃的だった。

それから半世紀「日の丸飛行隊」は日本の冬季競技を引っ張ってきた。80年レークプラシッド大会で八木弘和が獲得した銀は、札幌大会以来のメダル。20年ぶりに金メダルに輝いた92年アルベールビル大会のノルディック複合団体も、ベースはジャンプ力。伝統は、複合でも生きていた。

98年長野五輪では、再び飛んだ。前回大会銀メダルからの逆転優勝。原田雅彦が「ふなき~」と声を振り絞ったのが懐かしい。ラージヒルでは船木和喜が金、原田が銅メダルを獲得。札幌に続く地元大会でも、ジャンプは「主役」だった。

その後もレジェンド葛西紀明らがジャンプ陣を引っ張った。2014年ソチ五輪では団体で銅メダル。4大会ぶりの表彰台に上がった。同大会から行われている女子でも、18年平昌大会で高梨沙羅が女子ジャンプで初のメダルを獲得した。

半世紀、ジャンプ陣が戦ってきたのは、対戦相手だけではない。ルール変更や技術の進化。板の長さやウエアの規定は時に「日本バッシング」とさえ思えることがあった。技術で大きかったのは5字。札幌大会では2本の板が離れたら失敗だったが、今は2本の板を平行に飛ぶ選手はいない。

浮き沈みはあっても、常に世界のトップレベルで戦えるのは「日の丸飛行隊」の底力だろう。「体操ニッポン」や「競泳ニッポン」のような伝統の力と言ってもいい。もちろん、葛西らベテランが変化に対応しながら長くトップで頑張っていることも、伝統が引き継げる大きな要因だろう。

5日、メダルを狙った高梨は4位だった。スロベニアの躍進は驚きだが、日本勢も十分健闘し。今大会から行われる混合団体も期待できる。ノーマルヒル予選を4人全員が突破した男子は6日、決勝に臨む。50年前のことなど今の選手は知らないかもしれない。葛西でさえ生まれていない。

ただ、日本人が冬季五輪を知った大きなきっかけが札幌の青空にひるがえった日の丸3本だったのは間違いない。表彰台独占は難しいかもしれないが、50年前と同じ2月6日の日曜日にエース小林陵侑らで北京の空にも日の丸を掲げてほしい。【荻島弘一】(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「OGGIのOh! Olympic」)

笠谷幸生氏(2012年4月撮影)
笠谷幸生氏(2012年4月撮影)
長野五輪ジャンプ団体 金メダルを獲得し笑顔の(左から)斎藤浩哉、岡部孝信、原田雅彦、船木和喜(1998年2月17日撮影)
長野五輪ジャンプ団体 金メダルを獲得し笑顔の(左から)斎藤浩哉、岡部孝信、原田雅彦、船木和喜(1998年2月17日撮影)
長野五輪 ジャンプ団体 金メダルを獲得しインタビュー中に涙を流す日本の原田雅彦(1998年2月17日)
長野五輪 ジャンプ団体 金メダルを獲得しインタビュー中に涙を流す日本の原田雅彦(1998年2月17日)
18年平昌五輪 ノルディックスキー・ジャンプ女子 銅メダルに輝いた高梨沙羅(2018年2月12日撮影)
18年平昌五輪 ノルディックスキー・ジャンプ女子 銅メダルに輝いた高梨沙羅(2018年2月12日撮影)