今年も、この時が来ました。東日本大震災の発生から11年。2011年は東北総局に赴任していました。同じく仙台市内に住んでいた妻は「3・11」を迎えるたびに「避難所生活を鮮明に思い出す」と言います。

発生後1カ月、2カ月、3カ月、半年、1年…。青森、岩手、宮城、福島の沿岸部の市町村をほぼ取材してきた中、その時々、被災地の方々が最も嫌う表現が「節目」の2文字でした。区切りなど、ないのです。

彼もそうでしょう。仙台市在住のフィギュアスケーター羽生結弦。昨年の発生10年では「1182文字」のコメントを寄せました。

「頑張ってください」

「僕も、頑張ります」

【羽生結弦、1182字のエール】はこちら>>

かねて復興支援や寄付行為には熱心でしたが、11年目に入ってからも被災地が忘れられぬよう、事あるごとに震災に触れ、質問に答え、寄り添う姿勢を示してきました。彼にも「節目」がないことを物語る、発生10年からの1年間で発してきた言葉をまとめました。

◆21年3月26日 世界選手権、フリー後

「東日本大震災から10年は、かなり自分にとっても大きいと思っていて。自分自身、被災した時はかなりつらい思いをしました」

「ただ、僕以上につらい思いをした方々、ホントにホントに今も大変な思いをされていたり、今も苦しみながら前に進んでいる方はたくさんいます」

「もちろん自分にとって大切なことですし、これからも胸に刻んで。もし自分に何かできるのであれば、使命感とともに、できることをやっていきたいなと思っています」

◆4月14日 世界国別対抗戦、開幕前

「(震災とコロナ禍を『大変な状況は同じ』と重ね合わせ)今、僕ができることは、ここに立って、ここに演技を残して、誰かに何かしらの希望だったり、心が動く瞬間だったり、本当に1秒でもいいので、1秒に満たない瞬間でもいいので、何かしら誰かの中に残ったりするようなものを、演技を、すべきだなと思って、ここにいます」

◆4月18日 世界国別対抗戦、一夜明け

「僕が世界選手権で初めて3位になった年(12年ニース大会)が、ちょうど9年前。その時に思ったことと、同じようなことを(震災)10年ということで、あらためて思いました」

「できれば(苦しみが)ゼロになれば一番だと思うんですけど、それでも進んでいかなくてはいけないですし、立ち向かっていかなくてはいけないですし。ある意味、僕の4A(4回転半ジャンプ)じゃないですけど、挑戦しながら、最大の対策を練っていく必要があるんだなと感じます」

「そういう中で震災10年を迎えて、コメントを考える時に、どれほど苦しいのか、どんな苦しさがあるのか、それを本当に思い出してほしい、と思っている人がどれほどいるのか。思い出したくない人もいるだろう、そんなことを考えて」

「それって、今のコロナの状況と変わらないんじゃないかな、と思いました」

「最終的に震災のシーズンも、震災が終わったシーズンも…僕はあの時、もっともっと若くて。被災地代表は嫌だ! 日本代表として自分の力で取った(国際大会)派遣なんだから、被災地代表と言われたくない! という気持ちも、もちろんありました。いろんなものを勝ち取りたいって強く思っていました。でも、最終的には感謝の気持ちがすごく出てきて。応援されているんだ、僕が応援する立場じゃなくて応援されているんだ、って。そういったものが、また今回すごく感じられました。結果として、自分も滑っていいのかなと。自分が滑ることに何かの意味を見いだしていければ、それは自分が存在していい証しなのかなと」

昨年末の全日本選手権ではオリンピック(五輪)3連覇と4回転半に関する質問が集中しましたが、その中でも、故郷仙台について「温かい気持ちになれる」と語る場面がありました。

年が明け、迎えた北京五輪でも思いは忘れません。

◆22年2月14日 国内外メディア合同記者会見

「(被災地に向けて)いろんな方々から声をいただいたり。もちろん、おめでとうございます、にはならなかったかもしれないですけど、いろんな良かった、という声をいただいて。僕はある意味、幸せです」

「何かのきっかけでみんなが1つになることが、どれだけ素晴らしいことか。あの東日本大震災から学んだ気がしています。もちろん、つらい犠牲があった中です。でも、僕の演技が、皆さんの心が少しでも1つになるきっかけになっていたら、やっぱり僕は幸せ者だなと思います」

「それが東日本大震災とか災害とか、何かの犠牲がなく、全員が健康的な幸せの方向だったら、とてもうれしい。こんなに応援していただいて、本当に光栄だなと思っていると同時に、皆さんも自分を応援することで幸せになっていただけたら、うれしいなって」

◆2月20日 閉会式

日本選手団を通じて出したコメントにも、当然のように復興も願う文言が込められていました。

「東日本大震災を含め、さまざまな被害に見舞われた方、日々苦しい思いをされている方々に、少しでも心が休まる時間がありますよう、私も皆さんのことを遠くからでも応援できたらと思っております」

北京五輪取材を終えて帰国し、震災11年を前に、ふと思い出しました。昨年4月の国別対抗の一夜明け取材です。20-21年シーズンの最終戦で、その最後の質問者となりました。当時の来季、つまり今回の五輪シーズンについて聞くと

「来季は来季でしか分からないですね。ふふふ。その時はその時で、考えます」

「その時はその時で、またお話を」

思わず質問ではなく「申し込み」をしてしまうと、こう返されました。

「そうですね。また自分のコメントが欲しいと言われた時には、頑張って頭から、いろんな言葉をひねり出したいと思います」

「でも、僕は言葉のプロではなくて、どちらかというとスケートで表現したいので。できればスケートで表現できる道が取れれば」

それが、逆境を覚悟しながらも勝ちにいった北京五輪であり、世界初認定を勝ち取った4Aへの、孤高のトライだったのでしょう。

これだけ震災に関して発信してきても、最後は「挑戦し切った、自分のプライドを込めた」という姿にこそメッセージがあったのだと、最後は拝借で恐縮なのですが…思わされました。

◆22年3月10日 ミヤギテレビ(仙台市)の長寿情報番組「OH!バンデス」

「11年がたった今の世界で、命の意味と尊さを考えています。あらためて、今までの11年間、何ができてきたのだろうかと考えています」

「本当は、金メダルをまた持ち帰ってこられるように、と努力を重ねてきました。皆さんにお見せできるように、と思って頑張ってきました」

「僕は挑戦することをやめず、前へ進み続けましたが、成功するところまでいくことはできませんでした」

「悔しい、苦しい気持ちもありますが、そんな姿からでも、皆さんの中で何か意味のあるものになれているのであれば、本当に幸せだなと思っています」

「前へ進み続けることは大変なことであり、報われないこともある。それは、震災のことでも同じことがあると感じています」

「苦しくて、楽しくて、悲しくて。そんな皆さんの日々の中でも、応援してくださり、本当にありがとうございます」

「僕も、これからもずっと、応援させてください」

挑戦のゆくえは注目されますが、復興に対しては、やはり彼の中に「節目」はなさそうです。【木下淳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)