第100回を迎える全国高校ラグビー大会が27日、大阪・花園ラグビー場で開幕する。1918年(大7)に豊中運動場(大阪)で幕を開け、大正天皇の崩御や太平洋戦争による中止、開催地の変更も重ね、その歴史を刻んできた。日刊スポーツでは連載「花園100回の軌跡」を、5日間掲載する。

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18年に第100回を数えた全国高校野球選手権大会が第10回(1924年)から甲子園球場に移ったように、全国高校ラグビー大会も最初は花園ではなかった。1918年の第1回は大阪・豊中運動場で開催。その後、開催地の変遷はむしろラグビーの方が激しい。

戦前は豊中運動場(第1~5回)宝塚運動場(6、7回)を経て、甲子園球場(8~10回)でも行われた。その後は甲子園南運動場(11~25回=24回は関西、九州分離開催で福岡春日原球場も)へ。戦後は49年の28回大会で1度だけ、関東(東京ラグビー場)にも場所を移したが、西宮球技場にほぼ定着していた。

最初の花園開催は1963年1月1~9日(62年度)の42回大会だった。東京オリンピック(五輪)開催前の名神高速道路、山陽新幹線の工事などもあり、西宮球技場から日本初のラグビー専用スタジアムへ。優勝は天理。甲子園南運動場開催だった戦前の18回大会以来の頂点に立った。

当時の天理主将、ロック井上治美さん(77=同志社ラグビークラブ名誉会長)は述懐する。

「そら、すばらしいとこでした。芝生がもうフワフワでねえ。西宮(球技場)も芝生でしたが、一応、芝っちゅう感じやから。それにスタンドがあった。(奈良の)天理から近い。そんな地元感もありました」

天理は「正月に勝てるチームを」を合言葉に、61年からコーチ陣を刷新。井上さんらの代は同年に入学した。天理中、大阪の中学から経験者を中心にした18人。5人いた未経験者の1人、井上さんも偶然、その流れに乗った。

「私の実家は天理教の教会。親は私が雅楽部に入って、将来に役立てるもんと思ってたんです。ところが…」

入学式翌日、何げなくグラウンドをながめていて「ラグビー、楽しいよ。明日、部室に来てみたら?」と主将に声を掛けられた。甘い誘い? に乗って、部室に足を運んだ。

「もうやめられませんがな。やめる言うたら、どないな目に遭うか」(井上さん)

寮生活で続く猛練習。1年夏の長野・松本自衛隊合宿前に、京都の実家に1週間、帰宅を許されたが、学校に戻る時が苦しかった。「嫌で嫌で泣きながら」近鉄電車に乗った。

チームは強くなった。3年の夏合宿は岩手で、合宿後は秋田に遠征。練習試合で保善、秋田工に勝った。全国大会で直近の7年間、どちらかが優勝していた“2強”だったが、両校を連破。秋の国体も優勝し、花園初開催の大会で「優勝候補筆頭」と目された。

決勝の北見北斗戦は8-3。「北見はFWが強かったです。苦戦しました。でも、私らはBKがすごいのそろってましたんで『FWは絶対ボールを確保する』いうことでやってましたんで。まあ、負けることはなかったです」(井上さん)

V候補の重圧をはね除け、勝つべくして勝った。

1年間で公式戦、練習試合を含めて30戦全勝。卒業後、メンバーは早大、同大、関大、天理大で主将になった。最強軍団だった。

「私らの4年後(46回大会)も天理は優勝してますが、OB会でその連中によう言います。『1回目と4回目じゃ値打ちが違う』って」と井上さんは笑う。

伝統の純白ジャージーは当時も同じだった。抜群の運動量、展開力でボールを速く、大きく動かすスタイルも同じだった。違いがあるとすれば、“半パン”にベルトらしきものを巻いていることぐらいか。

「それはネクタイ。ベルト代わりです」

高度経済成長期の真っただ中。小さなミスマッチを気にしない、おおらかな時代に、高校ラグビーの聖地は第1歩を踏み出した。【加藤裕一】

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