83年(昭58)シーズン。神戸製鋼は当時23歳のロック林敏之、24歳のSH萩本光威ら若手の熱意に押され、システム改革を断行する。その第1弾が「主将互選制」だった。従来の監督任命制を、選手自身の推薦に変えたのだ。

林が同大在学中から日本代表で活躍したように、当時の若手の多くは学生時代からリーダー的な立場を経験。「全国の強豪」へと脱皮できないチームが上を目指すため、何かが必要と感じていた。そこで練習方法をはじめ、意識改革の必要性が唱えられていた。若手のまとめ役となっていた入社6年目の慶大出身フランカー安積英樹が、互選制の初代主将となった。

いち早く「日本一を目指す」と宣言し、ミーティングで先輩に怒声を飛ばした林も、少しずつ空気が変化するのを感じていた。

林 それまでやっていたのは、練習のための練習。目的もバラバラだった。勝つためにはどうしたらいいのか。自然とミーティングが始まったな。「日本一」を目標にしたら、見える世界も変わってきたよ。

88年度の初優勝の土台となる、若手の意見が反映されやすい環境が整ってきた。試金石となったこの83年度、早くも成果となって表れた。

関西社会人リーグはトヨタ自動車、大阪府警と並び6勝1敗で同率優勝した。創部55年目で初めての頂点。全国社会人大会でも32季ぶり4強入りした。

さらに改革は進む。第2弾として翌84年度から実行されたのが「監督制廃止」だ。新主将となった入社4年目の慶大出身NO8東山勝英、副将萩本ら中心選手の手で、自主性重視のチーム運営が始まった。これまでに類をみない、画期的なシステムだった。

林 監督廃止した要因に同大の存在もあった。(元日本代表監督でチームの象徴だった)岡(仁詩)さんが部長で、ヘッドコーチはいたが監督はいなかった。

萩本 廃止には反対意見もあった。やるにしても会社の承認が必要だったし、経営者の判断も絡んでいた。簡単じゃなかった。

難産の末に誕生した新体制。「失敗するだろう」と冷ややかに見る周囲の向きは多かった。それでも前進は続く。関西リーグで目の上のたんこぶだったトヨタ自動車を19-16と初めて下し、7戦全勝で初の単独優勝。全国大会も新日鉄室蘭、リコー、東京三洋(現三洋電機)を連破した。初の決勝では6連覇中の新日鉄釜石に有名な「13人つなぎのトライ」などを喫して0-22と敗れたが、頂点まであと一歩に迫った。

同大からロック大八木淳史が入社した85年度、関西リーグは5勝2敗の3位どまり。だが上り調子で全国大会を迎え、86年1月2日、花園での準決勝は釜石との再戦だった。風上の前半は林-大八木の日本代表両ロックが奮闘し、ラインアウトで優位に立ち3-0。そして9-9の後半39分、CTB藤崎泰士が2人を引きずり決勝トライ。ついに「北の鉄人」のV8を阻止した。

2年連続で進出した決勝戦を前に、当時社長の牧冬彦は中国の古典「戦国策」の一節を引用し選手を激励した。「『百里を行かんとする者は、九十九里をもって半ばとす』。九十九里は涙で過ぎた。百里を突破して大爆笑せよ」。意気上がるフィフティーン。ところがトヨタ自動車に3-12。泣き所のフロントロー(第1列)を突かれ、徹底したスクラム戦法の前に屈した。

選手による自主運営は一定の成果を生んだ。それでも悲願の全国制覇には「最後のワンピース」を待たなければならなかった。(つづく=敬称略)【大池和幸】

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