神戸製鋼入社1年目の1986年度からチーム運営の中枢を担ったSO平尾誠二は、主将の林敏之とともに、ゲームプランの転換を試みた。FW中心から、BKを主体とした「展開ラグビー」。だが、簡単に事は運ばない。関西社会人リーグは2年ぶり全勝優勝。ただ全国社会人大会は新日鉄釜石との準決勝で9-9の同点、抽選の結果により決勝に進めなかった。

翌87年度も頂点には届かない。84年度から監督制を廃止していたチームは、この年からコーチ制も撤廃。選手の完全自主運営となったが、もがき苦しんだ。関西リーグは2位に終わり連覇を逃す。全国大会は1回戦で東芝府中と対戦。前評判は神戸有利だった。ところが5点リードの後半終了間際にトライとゴールを決められ、15-16とまさかの逆転を喫した。

続く88年度、入社3年目の平尾が新主将に就任した。のちに主将となる大西一平や、SH藪木宏之もこの年に加入。選手層に厚みを増して臨んだ関西リーグだが、4戦目の近鉄に4-9と敗れた。続く大阪府警戦で連敗こそ免れたが、16-3と苦戦。現状での展開ラグビーに行き詰まりを感じた平尾は、リーグ戦のさなかにもかかわらず、ある決断を下した。

自身のSOからCTB転向―。すると、攻撃に連続性とダイナミックさが生まれ、トヨタ自動車を43-18と粉砕した。

平尾 僕がCTBに移ることで、ボールが1個外に動くようになり、チームの可動域が広くなった。ゲーム全体に及ぼす影響力は大きかったと思う。

そしてSOには新人の藪木を抜てきした。

平尾 悩んだね。藪木はどこかで使いたいなと思って、ずっと適性を考えていた。SHには萩本(光威)さんがいたしSOでええかと。結果的によかった。藪木も頑張ったと思うよ。

藪木はSHが本職だけに止まったままのパスは得意でも、SOに必要な走りながらのパスが不得手だった。脇が開かぬよう、両腕と体をひもで巻き付けたまま、1日何百回もパスする特訓が続いた。また、平尾いわく「キックがど下手」。蹴る選択肢がなく、しかしそれがチームのスタイルを貫くのにかえって好都合だった。

転機となる試合が訪れる。全国社会人大会2回戦の三洋電機戦(秩父宮)。開幕前の練習試合では完封負け。圧倒的不利の予想ながら、14-12と「金星」を挙げた。実は前主将だった林は、翌年に英国・オックスフォード大に留学することが内定していた。「神戸製鋼は今年で最後」と胸に秘めてプレーしていた。

林 120%の力が出て「走り勝つこと」が初めて形になった。もし三洋が勝っていたら、三洋があのあと何連覇もしていたと思う。それほど大きかった。

平尾 神戸がひと皮むけたゲーム。あれからチームが変わっていった。

そのままの勢いで、準決勝でトヨタ自動車に勝った。決勝でも東芝府中を23-9と破り、創部60年目で悲願の全国制覇を遂げた。表彰式で平尾は林に声をかけた。「賞状をもらえるのは林さんしかいません」。林は前年度に人材不足からプロップに一時転向。この時はロックに戻っていたが、左ひざがボロボロになりながらFWの核として奮闘した。監督制廃止など過渡期のチームを長く下支えした功労者への粋な計らいだった。

賞状を受け取り、号泣する林。鼻の周りが、血で真っ赤に染まっていた。平尾はそんな林の顔を思い出し「人間日の丸みたいやったなあ」と大笑いした。クールな表情を崩し、腹を抱えて懐かしむ姿が、初優勝の印象深さを物語っていた。(つづく=敬称略)【大池和幸】

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