悲願の頂点に立った神戸製鋼は、その後も着実に弱点を克服。完成されたチームに進化した。1988年度の全国社会人大会で初優勝し、5日後の日本選手権では大学王者の大東大から6トライを奪取。46-17と当時の大会史上最多得点の圧勝で日本一に輝いた。それでも主将のCTB平尾誠二は、頭を悩ませていた。例えばトライ後のゴールやPGを蹴るプレースキッカー。このシーズン、全国大会でのゴール成功率はわずか17%だった。

平尾 最初はFBの綾城(高志)が蹴っていたが、考えられないほど確率が低かった。見かねてCTBの藤崎(泰士)さんが「近いところなら届くから蹴ろうか」と言ってきた。それもトーキックでポコンと蹴るから、不安やったね。

そこで加入したのが同大出身のFB細川隆弘だった。平尾とは母同士が姉妹。つまりいとこにあたる。細川の安定したキックは弱点の1つを解消。キック技術の高い選手をたたえて「ゴールデンブーツ」と呼ぶが、その元祖ともいうべき存在だった。元号が平成に変わった翌89年度、サントリーとの全国大会決勝戦(花園)。28-15で制して2連覇を果たしたが、この試合のあるゴールキックの裏に、細川と平尾の「コンビネーション」が隠されていた。

位置は右中間で、距離は40メートル強。ゴールを蹴る細川が言った。「僕のキック力では1メートル届きません」。思案した平尾はなにげに審判の気を引き、そのスキを見て細川がポイントを前にずらしたという。

細川 反則ですけどね。バーに当たって入ったから、やっぱりギリギリだった。要は自分がコントロールできる距離を把握することが大事ということです。

「自分の距離は日々変化する」というのが細川の持論だ。風やグラウンド状況、体調にも左右されるからだ。

細川 例えば足首の角度も柔らかさによって微妙に変わる。試合前の練習で蹴った感覚で、だいたい分かる。体調がいい時は、体が柔らかいから足首も柔らかい。そうなると僕の場合、蹴ったボールは右に行くと分かってたんで、(蹴る)右足だけ軽くテーピングで固めて調整していた。

弱かったスクラムも、ロック林敏之が英国のエキスを持ち込むなど工夫を重ねて力強さが増した。オックスフォード大に留学していた林は、12月の全国社会人大会前に帰国。以降の全5試合にフル出場して、V2に大きく貢献した。

留学2年目の90年には、ケンブリッジ大との伝統の定期戦「ヴァーシティーマッチ」(1872年開始)に日本人として初出場。「ブルー」の称号を得た。広くは知られていないが、02年発表のオックスフォード大歴代ベスト15に選ばれる快挙も達成している。しかも、本職ではない左プロップとしての選出だった。

林 英国以外の選手では1人だけ。そこが面白いわな。もう2度と日本人は選ばれないと思う。でも、誰もあまり知らん。もっとPRしてくれたええのに。

ベスト15には元アイルランド代表の名FBヒューゴ・マクニール、87年第1回W杯チェアマンである右プロップのジョン・ケンドール・カーペンター、元神戸製鋼NO8マーク・イーガンらそうそうたる顔ぶれが連ねている。

林は184センチと当時のロックとしても小柄だが、一瞬のスピードと気迫でカバーしていた。試合前には自らの顔面を殴り、士気を高める行為が有名だ。この裏側を、同大の1年先輩だったSH萩本光威が明かした。

萩本 同志社の時は大原というプロップと激しく「しばきあい」をしてた。大学選手権の時にNHKに映って、ちょっとした問題になったほど。「相方」はラグビーを辞めたから、林は自分でやるしかなかった。壁に頭をぶつけたり…。

すさまじい闘争心である。(つづく=敬称略)【大池和幸】

◆林敏之(はやし・としゆき)1960年(昭35)2月8日、徳島市生まれ。城北高3年で高校日本代表に選出。同大4年で主将を務め、神戸製鋼でも2年間、主将を経験。87、91年W杯出場。日本代表キャップ38。FWの中軸として「壊し屋」の異名をとった。現役当時は184センチ、99キロ。

◆細川隆弘(ほそかわ・たかひろ)1967年(昭42)4月1日、京都市生まれ。双ケ丘中ではサッカー部。伏見工でラグビーを始め、同大から神戸製鋼に89年入社。1年目からレギュラーに定着。91年W杯大会にも出場。日本代表キャップ10。現役当時は180センチ、82キロ。

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