チーム結成から5年が過ぎ、日紡貝塚の強さは際立っていた。58年には都市対抗、実業団、国体などを制し国内5冠を達成。だが同時に、1つの転換期を迎えていた。

日本では9人制が主だったが、世界の主流は6人制へ移っていた。米国から欧州、共産圏へと広まった6人制は戦後、その影響を受ける国へと普及していく。9人制をやっていたのは日本と韓国、香港という東アジアだけになっていた。当初は「6人制は遊び」と否定的だった大松博文も「日本の次は世界。世界で戦うには6人制だ」と決断する。

59年に入り本格的に6人制の練習は始まった。同じバレーとはいえネットは約10センチも高くなり、コート上の動きも勝手が違う。ぎこちない動きの選手を見て、大松はひそかに米国、フランスから説明書を取り寄せて研究した。協会も6人制移行を勧め、他チームも続く。同年11月14日、全日本総合で明治生命を2-0で下した試合が、日紡貝塚258連勝のスタートになった。

60年10月、日紡貝塚中心の日本チームは、ブラジルで行われた第3回世界選手権へ出場する。わずか2年の練習で臨んだ初の世界大会で、日本はチェコスロバキア、ブラジル、米国の強豪を次々と撃破。世界一のソ連にこそ1-3で敗れたが、いきなり銀メダルを獲得した。協会幹部は「快挙だ」と興奮を隠せなかったが、大松は「1位でなければ猛練習の意味がない。これが世界挑戦へのスタートだ」と「打倒ソ連」へ闘志を燃やした。

翌61年、日紡貝塚は9人の単独チームでチェコスロバキアで開かれた3大陸選手権に臨んだ。大会前後に東欧諸国やソ連各地の選抜チームと親善試合を組んだ遠征は、2カ月にわたった。女性が海外へ行くことが珍しい時代に長期間の海外滞在。ライトの宮本恵美子は「食事が合わず、痩せ細っていった」と振り返る。それでも24時間生活をともにし、いっそう結束は強まった。同選手権で優勝した日紡貝塚は、初の欧州遠征を22戦全勝で終える。

当初は挑戦的だったソ連の地元紙も、次第にその強さを賞賛するようになった。「太平洋の台風を前に、まるで葦(あし)の細茎のようにポロポロと折れてしまった。彼女たちのテクニックはゴツゴツして美しさに欠けてるが、ほとんどミスがない。いかなる時も精神の均衡を失わないのも大きな長所である」「台風だと思っていたら台風はつぶれない。あれは東洋の魔法使いだ」などと報じた。これがその後「東洋の魔女」と呼ばれるきっかけになった。

世界で強さを見せ、日紡貝塚は大きく注目されるようになる。帰国したメンバーを待つ大阪駅は人であふれ、貝塚では市中パレードが行われた。練習時は見学する社員で人だかりができるようになり、練習を終えた選手が深夜に部屋に戻ると、同部屋の社員が湯たんぽで布団を温めていてくれたという。周囲の期待は強まるばかり。それでもチームは、ハードな練習を続けるだけだった。(つづく=敬称略)【近間康隆】

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