体操男子で五輪2連覇の内村航平(33=ジョイカル)が14日に都内で引退会見を開いた。16年から競技者としての最後の5年間に最も近くで接してきたのが佐藤寛朗コーチ(32)だった。小2から続く絆で支え合った日々を、会見後に振り返ってもらった。

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【写真特集】内村航平が引退会見、世界選手権で決めた「着地」など語った

役割は佐藤寛朗「コーチ」。ただ、もっと濃く、太い2人ならではのつながりがあった。パートナーであり、仲間でもある。内村航平の引退会見を会場で見守りながら、佐藤はこの5年間を思い返していた。

会見が始まり2問目だった。感謝したい相手を聞かれた内村から自分の名前が聞こえた。

「いろんな人がいますけど、その中ではコーチの佐藤ですかね。5年間一緒にマンツーマンでやってきて、かなり迷惑もかけたし、本当は最後に五輪で金メダルかけてあげたかったですけど、できなくて残念な気持ちもあるし。ただ2人で体操を研究してきた。コーチと選手の関係ではなく、同じ立場、研究する立場でやってこれたし、少しの時間で語り尽くせない濃い時間をともに過ごしてこられた。いまここに立っているのも彼のおかげ。素直にそう感じてます」

一気に感情が高まった。

「互いに全てをさらけ出して、良い所も悪い所もさらけ出して過ごして、練習以外の部分でも支え合いながら、やってこられたなと思いますし、すごく濃い時間だったな」

同じ気持ちだった。

「こうへい」「ひろ」。そう呼び合う仲だった。

小2、朝日生命の夏合宿で初対面してすぐに仲良くなった。同じ1989年(平元)生まれ。内村の方が1学年上だったが、高校で上京した内村が朝日生命で練習し始めると、関係はもっと深くなった。名前で呼び合い、つらく地味な練習に互いにふてくされながらも、努力の日々が続いた。

「プロになろうと思っている。そうなった場合、ひろにコーチに付いてほしい」

突然の打診は、内村が個人総合で2連覇を飾ったリオ五輪の後だった。

13年に現役を引退し、オーストラリアでコーチ修業をしていた最中。熟考の末に16年末に再び2人で歩むことを決めた。

「金メダリストと思わないでくれ」

遠慮のない意見を求める友人を「こうへい」ではなく「航平さん」と呼び、敬語に変えた。ただ、何でも言い合う、そこは変えなかった。

翌年にはあらためてすごみを知った。17年世界選手権(モントリオール)、個人総合予選。

2種目目の跳馬で左足首を負傷し、「すねが真っ二つに折れたかと思った」ほどの衝撃を受けながら、続く平行棒に臨んだ。

「このままじゃ終われない。足が砕けても演技する」

苦悶(くもん)にあらがう姿に衝撃を受けた。

4種目目の鉄棒で棄権し、個人総合の連勝が40、世界選手権の連覇も6で止まったが、逆に強さを目の当たりにした。

「僕も専属コーチになって最初の年だったので、あらためて意志の強さ、本当に体操で死んでもいいくらいの心意気を間近で見た」

佐藤にとって一層の覚悟で向き合う瞬間にもなった。

19年全日本選手権の予選では演技途中で投げ出すような態度にあえてきつい言葉をかけた。東京五輪出場のために種目別の鉄棒に専念する決断にも寄り添った。

21年、その五輪を予選落ちの残酷な現実で終えた2日後だった。2人は拠点としてきた都内のナショナルトレーニングセンターにいた。誰もいない広い練習場。世間では体操男子の団体決勝が行われていた。ぽつりと話しだし、出場が決まっていた10月の世界選手権の日程の話題を振った。

「もうそれはどうでもいいから。関係ないから」

ネガティブな発言ばかりの内村がいた。

「(予選落ちに)どんなメッセージ性があるんだよ…」

嘆く言葉に、返した。

「まだやめるなってことじゃないですか」

やめない確信はあった。

「僕は受けて立ち、ストレスが発散できるならという覚悟で向き合いました」

確信は現実になった。やめずに、10月の世界選手権までの日々が始まっていった。

2カ月後、北九州の会場に入った日、佐藤は帯状疱疹(ほうしん)を発症した。

「最後の試合になるんじゃないかなというのはあったので、納得の演技をさせてあげたい一心でサポートした。なんとか出られて、そこで僕の気持ちが吹っ切れました」

過酷だった。沈む心をどう耐え、つなぐか。ともに腐心し、あえぎ、たどり着いた最後の大舞台だった。

 

迎えた決勝。鉄棒の着地はみじんも動かなかった。代名詞が復活した。見守り、鳥肌が立った。

「諦めない。有言実行する。意志の強さは内村以外にいない。この5年間の全てが詰まった着地でした。これ以上はないです」

最後にまた素晴らしい光景を見せてくれた。「完璧でしたね」とかけた言葉に「ブレットシュナイダーが(バーに)近かった」と離れ技を悔しそうにする姿も、らしさを感じた。

 

引退を告げられたのはその1週間後だった。

「やらない」

あえて聞いた代表を目指すのかの問いに、そう返ってきた。ほっとした。もう十分に戦い抜いた。休んでほしかった。

 

それからこの日の発表会見まで、ただ練習場に2人はいた。

「引き続きコーチングを追求したく、特にトップの選手を育てる指導者になりたいと内村にも伝えていたので、僕がわからない技や、やってほしい技があったら、練習で試しながら、2人で研究してみようみたいな形で。それをモチベーションにしてやってました」

「こうへい」「ひろ」の頃のように、新しい技を通して体操の楽しさや奥深さを感じた。

「こんなにぜいたくなことはないなというくらい、ぜいたくな時間を過ごさせてもらってます」

少なくとも3月の引退試合までは、その時は続く。その先に、この5年間のかけがえのない経験を生かして日本男子の強化に関わりたいと思うようにもなった。

 

呼び名が戻ることはありますか? 聞かれると、楽しみなように未来を想像した。

「これからもなんだかんだで関係は続きますし、関係性は変わらずに、ですね。いまは『こうへいさん』です。また高校生の時みたいに呼び捨てに戻すこともあるかもしれないですね」

最後の5年間をともに生き抜いた2人。これからも体操とともに。【阿部健吾】