車いすテニス男子で、パラリンピック計4個の金メダルを獲得した国枝慎吾さん(38=ユニクロ)が7日、現役引退会見に臨んだ。所属先であるユニクロの柳井正社長も同席した。一問一答は以下の通り。

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-「俺は最強だ」という言葉を大切にしてきた中で、子どもたちが自信をつけるヒントがあれば

「『俺が最強だ』と思うメンタルトレーニングは世界ランキング1位になる前から続けていた。でも、そう言い続ければみんな1位になれるかといえば、そんなことはありえない(笑い)。裏では毎日同じような練習をずっと繰り返してきた。『俺は最強だ』と毎日言い続けた分、その反復練習のクオリティーも上がった。練習の質を上げることにつながった」

-苦しい局面をどう乗り越えてきたか。

「16年に王者の看板を若手の選手に渡してしまったとき、『俺は最強だ』という言葉をラケットから外そうかと悩んだ。でも最後まで外さなかった。それを外した瞬間に、もう戻ってこないと感じたから。テニスをやっていれば弱気になることは何度もあるが、弱気の虫を外に飛ばして行けた」

-スポーツとしての車いすテニスと常々言ってきた

「アテネ・パラリンピックのときは、僕が金メダルを取った記事がスポーツ欄になかなか載らなかった。どうにかスポーツとして扱ってもらいたいと思った。『車いすでテニスやって、偉いね』と言われたこともよくあったけれど、特別なことではない。目が悪ければメガネをかける。僕は足が悪いから車いすでスポーツをする。まずはスポーツとして見てもらえるようにというこだわりは、相当強く持っていた」

-そして実際に今、スポーツとして見られるようになってきたか

「東京パラリンピックでようやく、どんな競技かということを知ってもらえるようになった。あの反響は、スポーツとして認知されたという手応えが大きかった。昨年調子が良かった理由として、いままで感じていた『スポーツとして見てもらえるよう、世の中の目を変えたい』というプレッシャーを、1年間まったく感じずに戦えたから。ようやく純粋にテニスが出来た。上地選手や小田選手ら若い選手には、純粋なスポーツとしてのフィールドや環境を用意できたかなと。そこは良かったと思うところ」

-競技を始めた頃の自分に声をかけるとしたら

「11歳の頃はパラリンピックの存在を知らなかった。あの当時は『スラムダンク』が流行していてバスケットブーム。僕自身はバスケをやりたかったけれど、近くにバスケチームがなかった。母の趣味がテニスで、テニスコートに無理やり連れられ、初めて車いすテニスのことを知った。でもいまは全く変わった。車いすテニスとは何か、皆さんが知っている。車いすテニスを始めて28年が経った中で、ここについては本当に変わったと思う」