1981年(昭和56)10月1日名古屋五輪落城

 88年ソウルでアジア2度目の開催

 【バーデンバーデン(西独)一日午前-本社

 国際電話】名古屋無念!

 八八年夏季五輪開催地を決めるIOC(国際オリンピック委員会)総会の投票は、現地時間三十日午後から行われ、第一回投票で本命視されていた名古屋が、ソウルの猛追で大逆転負け、無念の涙を飲んだ。名古屋は27票、ソウルは52票という予想外の大差となった。ソウルの五輪開催は初めて、アジアでは日本に次いで二カ国目となる。なお、同時に行われた同年の冬季大会は、カルガリ(カナダ)に決まった。

 「読みが甘かった…」と沈み切った声の三宅重光・招致委員長。終盤、ソウルの猛追で窮地に立たされながらも「接戦だが、少なくとも十票差は・・・」と、最後まで本命説を信じ切っていた名古屋。二年前の立候補から地道な招致活動を続けて来た自信に、ソウルと比べ国際舞台での顔の広さなど、どうひっくり返して見ても負ける要素はなかった。それが予想外の逆転負けだ。

 もちろん、ソウルのえげつないほどハデなロビー外交によるIOC委員の「一本釣り」の効果も絶大だったかもしれないが、それ以上に悔やまれるのは日本側関係者のまとまりの悪さだ。もともとこの名古屋五輪は、スポーツ界の熱い発想から招致した東京、札幌と違って、市の地位高揚を目的に名乗りを上げたもの。五十二年八月の開催提唱から始まって、初期のころから市と中央のスポーツ界の呼吸がもう一つピタリといかなかった。最後まで、過去のようなスポーツ界全体の熱い後押しを得られぬまま、もつれ込んだところに一番の原因があった。

 体協内にある某競技団体では「名古屋の協会といっても事務局すらない。それを、われわれに相談もなくオリンピックと騒いでも、実際にやるのはこちらだし、ピンと来ません」という声もよく聞かれたし、今回の現地における招致活動でも、スポーツ関係者はもちろん、語学堪能な外交官まで繰り出したソウルに比べ「スポーツ関係者は数えるほど。後は市や県のおエラ方。今度はIF(国際競技連盟)やNOC(各国オリンピック委員会)会議も行われ、もっとスポーツ関係者が加わっていたら、影響はかなり違ったはず」という批判も飛び出す。

 こんな市とスポーツ関係者のまとまりのなさが、ソウルの逆転を許したといえそう。★地元に深夜のショック

 市長辞めるかも…

 「ソウル」-サマランチ会長の声が響くと、テレビを食い入るように見入っていた関係者は「えっ、まさか?」という表情で深く沈み込んだ。「残念です…・・・」吐き出すように語る田川亮三・三重県知事。その表情の深いこと。名古屋城の西堀端のホテル名古屋キャッスル銀の間にやって来たのは決定祝賀会のためであり、敗北宣言のためではなかった。用意されたくす玉の華やかさが、居並ぶ招致委員会メンバーの顔色を対照的に暗くする。鈴木副知事、谷助役が「みなさんのご支援にこたえることができず残念」と言葉少なに語った。

 会場で即席記者会見、加藤大豊JOC委員が「かねてからソウルをあなどるなと言っていたのに…」とくちびるをかみしめた。

 「本山さん(名古屋市長のこと)はこの責任をとってやめるんじゃないか」暗いざわめきの中に、そんな声すら交じっていた。県民のかなり強い反発の声を無理やり押し通しての招致運動だった。

 市庁舎前で九月二十一日からハンガーストライキを続けてきた反対派の学生らは「オリンピックが韓国に決まったからといって問題が解決したわけではないのです。私たちが反対してきたのは、民衆の声を無視して、なんでも勝手にやってしまう態度に対してなんです」と語る。

 住民パワーに押されてオリンピック開催が流れた例は珍しくない。この敗戦処理は今後長く尾を引きそうだ。【大久保】★沈む体協に声

 五輪が消えたわけじゃない

 現地に飛んだ柴田委員長の留守を預かる代行役、藤田明・水連会長らJOC関係者、体協職員が二階に用意された役員室のテレビ中継でその瞬間を見守った。画面から流れるサマランチ会長の「ソ・ウ・ル」のアナウンスに、しばらくは声が出なかった。テレビ・ライトに浮かび上がるどの顔も厳しい顔つき。「周囲もそうだったが、スポーツ界ももう一つ燃え上がりが少なかった……」とガックリするJOC委員。そんな中で「名古屋は負けたが、五輪が終わったわけじゃない。ソウルは飛行機でたった二時間。いつも悩まされる時差もないし、日本選手にとってはもってこいの地」と、選手強化をあずかる福山信義・競技力向上委員長は声をふりしぼった。※表記は当時のものをそのまま再現しています。