全国高校ラグビーで4度の優勝を誇る京都の名門・伏見工は、学校統合により、今年4月に京都工学院に名称変更になりました。この秋には新チームで、花園出場をかけた戦いが始まります。日刊スポーツでは、昨年末に「伝説の伏見工~泣き虫先生と不良生徒の絆」(6回)としてWEB連載し、計340万アクセスを記録する大ヒット作になりました。10月5日には「伏見工業伝説」(文芸春秋)として書籍化されました。取材にあたった益子浩一記者と松本航記者が取材ノートから当時を振り返ります。

京都工学院で副校長を務める高崎利明は、自宅の居間に小さな写真を飾ってある。ちょうど2年前の秋、その隣に1枚の写真が増えた。

泣き虫先生こと山口良治から監督を引き継いだのは、今から20年前の98年。15年に松林拓に監督を譲るまで00、05年度と2度の全国制覇を達成している。

辛い出来事に見舞われたのは、11年9月10日のことだった。学校のグラウンドで走り込みをしていた3年生の新居隼人さんが熱中症で倒れ、帰らぬ人となった。どれほど時間が過ぎても、苦しみが消えることはなかった。悩み、自問自答を繰り返した末に、高崎は監督だけではなく、教職から離れることを決心した。

だが、その決断を止めてくれたのは、最愛の息子を失った新居さんの両親だったという。

「隼人のことがあって、僕は教師を辞めようとしたんです。家内にも伝えていました。家内は、『あなたが真剣に考えて出した答えなんやろうから、それでいいよ』と。でも、そんな時に、ご両親から『隼人のためにも、まだ教師をやってください』と言っていただいたんです。そのおかげで、僕は逃げずに、しっかりとその出来事と向き合って生きることができた」

その頃から高崎は、自宅居間のテレビの横、いつもすぐ目につくところに、新居さんの遺影を置くようになった。

日本代表監督を務めた平尾誠二(享年53)が、16年10月20日に胆管細胞がんで他界してからは、遺影は2つになった。初の全国制覇を達成した80年度、スタンドオフ(SO)の平尾とはハーフ団を組んだ仲だった。大事な試合があると、高崎はその2枚の写真を胸のポケットに収める。中学時代からともに汗を流してきた平尾と、教え子が、力をくれるような気がするからだ。

今回、伏見工の取材を進めるにあたり、私は、部員の死を聞くことをためらった。心の奥底に潜む、決して消えることのない傷を掘り起こすことによって、高崎を苦しめてしまうのではないだろうか。そんな戸惑いがあった。

一方で、伝統ある伏見工ラグビー部の一員として、確かに存在した彼の名を残したいとも思った。それは、物書きを職業とする人間の勝手な考えかも知れない。どちらが正解なのか、答えは見つからないまま、原稿の締め切り日を迎えた。

その夜、私は高崎の携帯電話を鳴らした。取材の過程で、彼の死について、聞くことができなかったことを正直に伝えた。その上で、書くべきかどうかを尋ねた。

「ちょっと、考えさせてもらってもいいですか?」

 辛い過去を、思い起こしていたのだろう。少しの沈黙の後に、言葉が続いた。

「やっぱり、書いてもらっても構わないです。ご両親には、私の方からきちんと伝えておきます」

電話口から、そう聞こえてきた。「本当に大丈夫ですか」と念を押すと、こう返してくれた。

「きちんと書いてくれると、信じています。隼人は、伏見工業ラグビー部のメンバーですから」

道路の片隅に車を止め、携帯電話を握りながら、涙が止まらなくなっていた。

赤と黒の伏見工のジャージーに憧れ、日本一になることを夢見た新居隼人さんの生き様とその出来事は、締め切りの都合もあって、ほんの一部分しか描くことができなかった。だからこそ、ここにあらためて記したかった。

ドラマ「スクール☆ウォーズ」ではイソップとして描かれ、77年にこの世を去った奥井浩さん。がんを患い、92年に他界した若林紀彰さん。彼らもまた、伏見工ラグビー部の一員として歴史に刻まれている。悲しい出来事に向き合いながらチームは心を1つにし、彼らが旅立った後には、決まって日本一になっている。

この秋、伝説の高校は京都工学院として新たな歴史への第1歩を刻む。

高崎は言う。

「楽しみやね。今年のチームは2年生が多い。うまく勝ってくれれば、来年にもつながる。初出場初優勝を狙えるのは、今だけやないですか」

今年もまた、高崎は胸に2枚の遺影を抱いて、花園への道を歩んでいく。

愛と絆-。今でも脈々と受け継がれるものが、チームにはある。それは、今は亡き生徒へも注がれている。(敬称略)【益子浩一】