聞き慣れた実況がある。京セラドーム大阪のバックネット裏で、落ち着いた口調で話すのは大前一樹アナウンサー(59)だった。オリックスファンにはなじみの声だろう。主に「J SPORTS」で実況を担当しており、優しいトーンで茶の間に寄り添っている。

「よく言われることがあるんです。『オリックス勝ってるから大前さん機嫌いいな、とか、負けてるときは怒ってるわぁ』とか」

テレビ実況時と同じような、ふんわりした関西弁で話す。「でも(実況で)話してるときは極めてイーブンなんです。一歩ちゃんと引いて見ているというか、それが仕事ですからね」。

数々の試合で実況を担当してきた。「よく言われるのは、14年の日本ハムとのCS第2戦でT-岡田が打った逆転3ランのことですね。ただ、僕は次の負けた試合が印象に残ってます…。最後、中田選手に1発を打たれて負けるんですが…。心に残っているのは『勢いだけでは勝てないんだな』と思わされた試合ですね」。オリックス戦を担当しているだけに、そんな気持ちが自然と込み上げた。選手から「この前の実況、良かったです。うちの親が大前さんの実況、好きなんです!」と言われることもある。

純粋な「阪急・オリックス愛」を持つ。あの頃と変わらぬ気持ちでマイクの前に座る。

「阪急沿線に住んでいたので、子どもの頃から阪急ブレーブス愛があったんです。小学校2年生のときに西宮球場に連れていってもらってから、ずっとですね。今は(チーム名が)オリックスになりましたけど、同じチームですから」

当時、西宮球場で感じた気持ちを、職場で思い返すこともある。「子どもの頃からの延長なんです。見る位置は変わったんですけど、あのときの気持ちのまま試合を見ていますね」。

大前氏のキャリアは異色とも言える。「大学を出て、地方アナとして6年仕事をしたんです。そのときに球団職員を公募していた。スポーツ新聞にも(公募が)載っていたので、受けてみようかなと思って。そこ(91年)から(近鉄と)合併後の05年まではオリックスで働かせて頂いてました」。子どもの頃に憧れたチームの、仕事に就いた。

「入ってすぐに西宮から神戸への移転でした。イチローが現れて、阪神淡路大震災もあって、がんばろう神戸もあって…。そこから(近鉄と)合併もありましたね」。

多忙な時間を過ごした。「合併直前はユニホーム決定や球団歌も作らないと、という感じで大忙しでしたね。ビジョンの演出、機関誌の発行も任せてもらってました」と誠意と、熱意を持って働いた。

球団合併後に退社。独立して、再びスポーツアナウンサーとして球場に向かった。実況時や取材の心得は「ある意味で一線を引いて、距離を保つことですね。プロ野球選手という特別な存在に対するリスペクトを常に持っています」。

現在は新型コロナウイルスの影響もあって、スタジアムに足を運べるファンは限られている。「生で観戦できない分、テレビを通じて球場の臨場感を感じて頂きたいんです」。画面越しに応援するファンに、丁寧な情報を届ける。【オリックス担当=真柴健】


◆大前一樹(おおまえ・かずき)1961年(昭36)6月13日、兵庫県生まれ。関西学院大学卒業後、84年に和歌山放送にアナウンサーとして入社。その後、阪急ブレーブスが球団職員を一般公募していることを知り応募。90年にオリックス野球クラブに転職。球団ではプロデューサー業務などを任され、91年には本拠地のグリーンスタジアム神戸(現・ほっともっとフィールド神戸)移転を機に、日本初の男性球場アナウンサーとして「DJ KIMURA」を採用し、スタジアムDJのスタイルを確立した。05年10月に退社し、独立。現在は有限会社オールコレクト代表取締役、関西メディアアカデミー代表。