侍ジャパンの取材をしている。宮崎最後の夜、巨人の小谷正勝投手コーチ(71)と食事をした。中旬に訪れた店に「木挽」のボトルが残っていた。「そのままにしておくのも」と、ゆっくり空けることにした。

 名伯楽、職人。そんな枕詞(まくらことば)がつくことが多い小谷コーチ。案の定というか、復帰した巨人のことしか興味がないようだった。やや強引にWBCの話題へ持っていった。「初戦はキューバです」「ふーん…。キューバといえばだな…」。この国とは縁があった。

 ヤクルト時代の01年オフ。球団から「キューバに行ってくれ。急で申し訳ないが、正月に出発でキャンプに間に合うよう帰国する」と命を受けた。翌年の1月6日、成田空港に行くとアマ球界の重鎮である山本英一朗氏(故人)がいた。キューバとの親交が非常に深いと聞いた。

 到着してすぐ「ただ事じゃない」と察知した。貴賓室に通され、スポーツ大臣同席でラム酒のパーティー。ホテルの部屋も素晴らしく、VIP扱いだった。キューバ選手のNPB入団が可能となり、数人の中から選ぶ…スカウト活動の一環とばかり思った。「ついにキューバ野球が入ってくる。失敗できない」と気合が乗った。だが翌日からの予定を聞いて驚いた。

 キューバ投手に投球を教えて欲しいという。政府からの依頼を受けた日本球界が、小谷コーチを派遣したのだった。

 依頼には理由があった。01年の11月、IBAFワールドカップ準決勝。日本とキューバは、延長11回の死闘をしていた。

 先発は藤井秀悟(当時ヤクルト)。圧倒的なエースであるコントレラスとがっぷり四つの投手戦を展開した。パチェコ、リナレス、キンデランといった主力を、チェンジアップでことごとくすかした。最後は力尽きたが、当時無敵の相手を徳俵まで追い詰めた。

 国を挙げ、ボトムアップで野球を鍛え上げるキューバは、スライダーの対となる軌道の変化球を持ち合わせていなかった。「フジイのチェンジアップ」に着目し、技術を輸入しようと考えた。藤井を指導し、投球動作の知識も深い小谷コーチが適任だ…という経緯があった。

 1カ月の指導を終え帰国するとき、要人に言われた。「ミスター小谷。我々はあなたに感謝する。期間中、約束通り日本はじめ外部に連絡せず、選手たちとも余計な接触をせず、指導に専念してくれた。両国の交流に大きく貢献してくれた」。最後の最後にキューバという国の本質に触れた気がした。

 時を経て今、キューバ投手陣はボールをベース板付近で豊かに動かし、打者のタイミングを外すタイプが多い。ルーツは日本にあった。【宮下敬至】

(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「野球手帳」)