<北海道 百年の記憶-甲子園あの日、あの時/1986年夏・1回戦 東海大四-尽誠学園(香川)>

 “北の若大将”が、四国の怪腕を打ち砕いた。1986年(昭61)夏。南北海道代表の東海大四は、1回戦で大会屈指の速球派右腕、伊良部秀輝(元ロッテほか)を擁する尽誠学園(香川)に7-6でサヨナラ勝ちし、春夏通算5度目の甲子園で初勝利を挙げた。1点を追う9回、エース大村巌(現DeNAコーチ)が起死回生の同点弾。甘いマスクの2年生が、劇的勝利の呼び水となった。

 灼熱(しゃくねつ)の甲子園で、東海大四の2年生エースは、ふがいない投球の責任を感じながら打席に立った。最大4点差から、味方がじわじわと追い上げ、1点ビハインドで迎えた9回。先頭打者の大村は、四国の怪腕、伊良部の真っすぐだけを待っていた。

 1打席目は度肝を抜かれた剛速球だったが、2打席目は中堅へ犠飛、さらには特大ファウルも飛ばしていた。「これなら、打てるかな」。148キロの直球にも、気後れはしない。内寄りの真っすぐを強振した。「ちょっと詰まったけど、当時あったラッキーゾーンに入った」。起死回生の左越え同点弾。うれしくて、ダイヤモンドを回りながら、思い切り跳びはねた。

 今春のセンバツ限りで部長を退いた当時の日下部憲和監督(63)は「打った瞬間、行ったと思った」。背番号1とはいえ、間違いなく打者としての素質の方が上だった。リストが強く、遠くへ飛ばすのはお手のもの。入学間もない5月、北海との練習試合では、打球が北海グラウンドの左中間フェンスを越え、さらにその先の道路も越えて民家の屋根に直撃した。3年生になると、その屋根の上を軽々と越えて行くほどになる打撃は、あの夏、後にプロ球界最速を誇った剛腕を粉砕した。

 身長186センチの長身に、女性受け抜群の甘いマスクは、10代の圧倒的支持を集めた女性誌「セブンティーン」にも取り上げられたほど。“若大将”の愛称でおなじみの巨人原辰徳監督の東海大相模(神奈川)時代をほうふつとさせた。87年(昭62)にドラフト6位でプロ入り。同期には、あの伊良部がいた。プロ入り初アーチは93年(平5)7月で、くしくも母校が7年ぶりに夏の甲子園出場を決めた日の夜だった。「甲子園へ行きたくて、稚内から札幌の東海大四に入ったんだから、達成できて良かった。今回、こんな準優勝するまでのチームになるなんてね」。現在46歳。今春のセンバツで快進撃を見せた後輩たちの活躍に、過ぎし日の青春を重ね合わせた。(敬称略)【中島宙恵】

 ◆VTR 東海大四が両軍26安打の乱打戦を制した。1点を追う9回、先頭打者のエース大村が、左翼ラッキーゾーンへ同点ソロを運んで試合を振り出しに戻すと、2死一、三塁から俊足の1番日高孝が、サヨナラの適時内野安打を放ち、大会屈指の剛腕、伊良部を攻略した。東海大四は14安打中6本が内野安打。1度は救援を仰いだ大村だったが、6回以降は無失点と踏ん張った。

 ◆北海道の高校からプロ入りした選手 米大リーグ、ヤンキース田中将大(駒大苫小牧)は言わずと知れた英雄だ。楽天時代に沢村賞を2度受賞。無敗でシーズンを終えた13年には前季から28連勝のプロ野球記録を樹立、ギネス記録に認定された。

 古豪の北海では、日本人最高通算打率(3割1分9厘)の若松勉(元ヤクルト)が代表的。東海大四OBは大村に加え、佐藤真一、佐竹学(ともに現オリックスコーチ)と、引退後も指導者として活躍する選手が多い。