こん身の1球は、無情にも大きくそれた。1987年(昭62)夏の甲子園1回戦。後に“奇跡のリリーバー”と呼ばれた函館有斗(現函館大有斗)の大型エース盛田幸妃(元横浜など)は、1点リードの8回2死満塁から、押し出し四球で追い付かれ、続く打者に勝ち越し適時打を許してしまう。1アウトの重みを痛感した夏。沖縄水産(沖縄)上原晃(元中日)との投手戦に競り負け、夏初勝利の夢はかなわなかった。

 悲願の夏初勝利まで、あとアウト4つ-。函館有斗の大型エース盛田は、思わず天を仰いで悔しがった。大会屈指の右腕と言われた沖縄水産・上原との投手戦は、8回を迎えて函館有斗が1点リード。2死満塁の大ピンチで投げたこん身の127球目は、外角へ大きくそれた。痛恨の押し出し四球で同点。気力も、体力も限界間近だった。続く打者に力のない球を左前へ運ばれ、土壇場で試合をひっくり返された。

 幼稚園からの幼なじみで、中高と6年間バッテリーを組んだ西村嘉浩は「なぜ、満塁になったところでタイムを取らなかったのか」と、45歳になった今も迷う。「強がりだけど繊細」という性格を考えれば、一呼吸置く手もあったのではないか…。それでも「表情を見れば考えが分かる。2人だけの“間”があった」。実家は2キロほどしか離れておらず、小さい時から登下校はいつも一緒。強い絆のもと、背番号1に勝負を託した。

 春夏合わせ3度、甲子園の土を踏んだが、白星には縁がなかった。186センチの長身に「腕のしなり、指のしなやかさは天性のもの」という有斗史上屈指の右腕は87年(昭62)、横浜(現DeNA)の前身にあたる大洋の1位指名を受けてプロ入り。92年(平4)には、中継ぎながら規定投球回に達して最優秀防御率のタイトルを手にするなど活躍したが、近鉄へ移籍した98年(平10)に病魔が襲う。脳腫瘍だった。

 手術後、長いリハビリ生活を経て復活し、2001年(平13)には中継ぎで2勝を挙げて“奇跡のリリーバー”と呼ばれた。「投手なのに右半身が動かない。本人は『野球選手として戻れるとは考えられなかった』と言っていたが、意地でも復活してやるという気持ちだったはず」。02年に引退。親友として「病気さえなければ、もっとやれた」と思う。「“有斗魂”とは、最後まで諦めないこと。“逆転の有斗”ですから」。引退後も手術を繰り返し、現在も病と闘う元エース。不屈の魂を、旧友たちは信じている。(敬称略)【中島宙恵】

 ◆VTR 4回までに2点をリードした函館有斗だったが、6回に盛田幸がつかまり2連続長短打で1点を返される。制球を乱した8回には、2死満塁から押し出し四球を与えて同点。直後に8番打者に三遊間を抜く左前打を許し、勝ち越された。打線は6回以降、大会NO・1右腕、上原の前に無安打に抑えられて12三振。好投した盛田幸だったが、135球で力尽きた。

 ◆道南の小さな“甲子園” 太平洋を一望する高台にある函館大有斗の専用球場。その片隅でひときわ存在感を放つのが、78年(昭53)に完成したクラブハウスだ。建物の外壁を一面に覆うのは、甲子園と同じツタの葉。85年(昭60)夏に甲子園に出場した際に株を分けてもらい、函館へ持ち帰った経緯がある。

 21世紀の大改修を経て現在はまだ育成中の“本家”とは違い、函館大有斗のクラブハウスでは、聖地の象徴とも言える濃緑の大きな葉が伸びやかに生い茂り、白球を追う球児を励ましている。