プレーバック日刊スポーツ! 過去の7月30日付紙面を振り返ります。1999年は、高校野球東東京大会で、都立城東が決勝で駒大高を破り、東東京で初めて都立校が甲子園切符をつかんだ様子を伝えています。城東は甲子園では初戦で智弁和歌山と対戦、惜しくも2-5で敗退しました。

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<高校野球東東京大会:都城東3-0駒大高>◇29日◇決勝◇神宮

 夏の高校野球・東東京大会で都立城東が、都立校としては1980年(昭55)の西東京・国立以来19年ぶり2度目の甲子園出場を決めた。29日、神宮球場での決勝戦で今春センバツ出場の駒大高を3-0で破った。「私立名門校」への対抗心で団結するチームが並み居る強豪を撃破して、優勝した。8月7日開幕の選手権大会では都立校、悲願の初白星を目指す。

 マウンドのエース池村隆広(3年)にナインが突進する。有馬信夫監督(38)が派手に両手を突き上げながらベンチを飛び出した。叫び声を上げながら泣き顔、笑い顔のナインが帽子を飛ばし、入り乱れた。ムースで固めた髪形の集団で1人丸刈りの池村の頭が左右に揺れる。口元は笑うが、目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。

 全6試合に先発した。51回を投げ2戦目以降5試合を1人で投げ切った。「私立の強豪みたいに何枚も看板がいないんで。池村と心中です」の有馬監督の期待にこたえた。駒大高に5回までヒットを許さなかった。9個の0が並ぶスコアボードを振り返り「さっき気付きました」と涙をふいた。ボールを握るのも精いっぱいだった。

 「有名、強豪私立を食って甲子園に行きたい。できるなら1回戦から当たりたい」。ナインは大会前から口々に話した。準決勝の相手が早実と決まった時、福永泰也主将(3年)は言った。「やっと有名校と当たりましたね」。2戦目の4回戦から私立校を次々に撃破した。私立名門校への強い対抗心がチームの柱だった。

 劣等感ではない。ナインの半分は初めから「強い都立」城東野球部を目指して入学していた。「私立の、がんじがらめの野球は嫌だった。城東が都立で一番甲子園に近いと思って入学した」と坂本荘運右翼手(3年)は話す。学校のある江東区周辺は少年野球が盛んな土地でもある。仲間だった多くの有望選手は有名校にスカウトされていく。的野真也左翼手(3年)も周囲の有望選手同様に帝京野球部を目指した。「でも(入試で)落ちちゃって。都立で見返してやろうと思った」。決勝戦の駒大高は今春センバツ出場校。相手に不足はなかった。

 通学距離などで、城東に入学し、たまたま野球部に入った部員もいる。「そんな子はうちの厳しい練習にびっくりしちゃう」と有馬監督は言うが「有名私立に負けない」の合言葉がチームの一体感も生み出す。部員84人。ほかの都立の約2倍の人数だ。しかし途中退部する部員はいない。甲子園への意識の低い生徒も「都立で甲子園に行く」という部の空気に引っ張られる。

 「目指してはいたけれど、まさか本当になるなんて」。池村には甲子園に行く実感はなかった。「大学では通用しないでしょう。もう野球はやらない」と部員の半数以上が言う城東野球部が、甲子園で完全燃焼、都立校1勝を目指す。

◆都立高校の甲子園

春夏通じて初出場を果たしたのが、1980年(昭55)、西東京代表となった国立。167センチ、60キロと小柄なエース市川がチームの原動力。西東京大会の準々決勝の佼成学園戦は1-1のまま延長18回引き分け再試合となり、翌日の再試合を6-3で制す熱戦。その後、準決勝で堀越を2-0、決勝となった駒大高戦も2-0と、強豪私立勢を次々に撃破して初栄冠を勝ち取った。甲子園大会では1回戦で優勝候補の箕島(和歌山)に0-5で敗れ、都立校の甲子園初白星は果たせなかった。

◆都立城東 1978年(昭53)に都立の普通校として創立。野球部は開校と同時に創部。部員数は84人。夏の都大会では93年(平5)のベスト8が最高。生徒数は972人(うち女子は439人)。校訓は「自立・友愛・実践」。所在地は東京都江東区大島3の22の1。佐藤美穂校長(55)。

◆Vへの足跡

3回戦 9-0 葛飾商

4回戦 8-0 大東大一

5回戦 6-4 東農大一

準々決勝 5-1 京華商

準決勝 8-7 早実

決勝 3-0 駒大高

※記録や表記は当時のもの