パイオニア野茂英雄投手(39)の功績は大きく2つある。ひとつはやはり日本人選手のメジャーリーグへの道を開いたことだ。そしてもうひとつは、アマチュアで野球を続けたい、と思う選手のために、実際に受け皿をつくったことだ。メジャーからアマチュアまでの懸け橋となった男。「夢をあきらめるな」という言葉は、野茂の生き方そのものだった。

 野茂が海を渡った1995年は、1月に阪神大震災が起き、3月には地下鉄サリン事件があった。暗い話題の中で、野茂が大男たちに向かって全力で投げ、打ち取る様子に多くの人が、手に汗を握り、自分を重ねた。

 当時の大リーグはまだ未知の世界。それを世の中に定着させた。日本とは違う野球があることもわかり、トレーニングを続ければ、長く、高いレベルでプレーすることができることも広まった。

 野茂は「これからもっと、もっと(日本人選手が)来ますよ。5年後には10人を超えるプレーヤーがいますよ」と話した。その後をみれば“予言”はあたっている。当時はまだメジャーに行くルールが整備されていなかったため、野茂の行動は「協約破り」とも批判された。報道陣ともあまり話さず、「マウンドでの投球がすべて」と投げていた孤高のイメージが強い。本当は雄弁で野球の話は2時間でも3時間でも熱く話した。最初に道を開くことは困難がつきまとう。でもけして泣き言を言わず、彼は負けなかった。

 野茂は近鉄に入団した1年目のサイパンキャンプの時から、本場のベースボールカードを買い集めホテルの自室で、カードに書いてあるメジャーの選手の成績や特徴を覚えて「いつかはメジャーに行きたい」と思い描いていたという。

 けして野球エリートではない。甲子園にも出場していない。「僕は高校で野球をやり、まだ続けたいと思った時に、たまたま社会人野球に入れたからよかった。もし、受け皿がなかったら、野球をやめていたかもしれない」。そう言って、03年、不況で廃部する社会人野球チームが多いのを憂えて、野球を続けたいアマチュア選手のためにクラブチームを作った。

 言葉だけでなく約束を守り、行動する。彼の周りには人が集まる。メジャーでも尊敬の的で、人柄を評価する声は多い。

 最も心に残っている言葉は「打たれることは恥ずかしいことではない。逃げることは恥ずかしいこと」。子どもらに投手のモットーを語った言葉だ。

 野茂は今、胸を張って堂々とマウンドを降りる。少しだけ寂しいのは、空を仰いでふーっと息を吐き、ぐーんと両腕を空に突き上げ、ギリギリまで体をひねった後に一気に投げ下ろす-。あのトルネードが、もう見られないことだけだ。【元ロサンゼルス支局・南沢哲也】