広島で4番打者としてプレーし、ロッテで監督も務めた日刊スポーツ評論家の山本一義氏(やまもと・かずよし)が、9月17日午後9時4分、尿管がんのため広島市内の病院で死去していたことが3日、分かった。78歳。現役時代は75年の広島初優勝に貢献。引退後も卓越した打撃論と指導で阪神金本監督らを育てた。25年ぶりリーグ優勝に配慮した故人の遺志で公表を控えていた。葬儀・告別式は既に家族葬として執り行われ、遺族の意向で供花・香典などは辞退される。

 カープの優勝を見届け、山本氏が静かに息をひきとった。78歳だった。昨年11月から闘病。懸命の治療を続けてきたが、9月になって容体が急変。後輩たちの激闘を見届けた1週間後に帰らぬ人となった。CSを控えるチームのことを考えた故人の強い要望で、全日程終了後の公表となった。

 おとこ気あふれた人生だった。法大では左打ちのスラッガーで名をはせた。プロ入りでは他球団の熱烈な誘いもあったが、断って広島に入団。提示された金額は一番低かったが「地元で応援される喜び」に勝るものはなかった。直接被爆こそなかったが小学1年生で原爆投下を見た。広島に元気を与える使命を感じていた。

 入団後は1年目から4番として広島を支えた。初優勝した75年にはコーチ兼任で貢献し、そのシーズン限りで引退した。特に巨人戦には闘志を燃やし「広島の背番号7は山本一義と覚えてもらいたかった。それには巨人戦で打つしかなかった」。

 引退後は82年からロッテ監督を務め、94年に再び広島のチーフコーチとなると、熱血指導で次々に選手を開花させた。自宅の屋上に練習場を設け、就任が決まった当日から選手を呼んだ。食事も共にした。「カズさんのように広島の4番を打ちたい」と言った金本には付きっきりで指導した。

 全日本少年硬式野球連盟(ヤングリーグ)の会長も務め、評論家としてカープを見守ってきた。闘病中のベッドでも野球中継を見ては「強いチームになった。ワシも負けられん」「緒方がいい顔をしとる」。そして「金本が心配じゃ」と気に掛けていた。

 ◆山本一義(やまもと・かずよし)1938年(昭13)7月22日、広島県生まれ。広島商-法大。61年広島入団。外野手。66、69年ベストナイン。広島初優勝の75年に引退。通算1594試合、1308安打、655打点、打率2割7分。その後広島、近鉄でコーチを務め、82、83年ロッテ監督。82年には落合博満を初の3冠王に導いた。94年から5年間広島コーチ。緒方孝市、金本知憲ら後の主力を鍛え上げた。現役時代は177センチ、75キロ。左投げ左打ち。