プロ野球の毎日、大毎(現ロッテ)阪神などで強打者として活躍し、ロッテと中日で監督を務めた山内一弘(やまうち・かずひろ)氏が2日午後7時26分、肝不全のため、都内の病院で死去していたことが5日、分かった。76歳だった。近親者で密葬を済ませた。シュート打ちの名人で2度の本塁打王、4度の打点王、1度の首位打者に輝いた。現役通算2271安打、396本塁打、1286打点で昭和生まれで初めて2000安打を放った。指導にも熱心で「(やめられない、とまらない)かっぱえびせん」との異名をとった。

 強打で鳴らした山内氏が静かに逝った。肝不全だった。楽しみにしていたオフのロッテOB会も昨年、一昨年は欠席。07年3月24日のロッテ開幕戦(千葉マリン・日本ハム戦)の始球式を務めたが、スタジアム内の移動は車いすだった。だがそこは野球人。始球式ではベンチから歩いてマウンドに上がり、大役を果たすと歩いて戻った。うまく投げられなかったが「私の専門は打つ方だから、球が重く感じたよ」と笑わせた。

 その後は、公の場に姿を見せることもなくなり、今年の球春到来を告げるキャンプインの翌2日に息を引き取った。大毎時代の監督だった西本幸雄氏は「調子が悪いとは聞いていたが、今年も年賀状がきたので元気だと思っていた」と残念がった。

 社会人を経て、52年に毎日に入団。60年には本塁打王、打点王の2冠に輝き、大毎の優勝に貢献、最優秀選手(MVP)にも選ばれた。64年に、通算320勝を挙げた小山正明投手との“世紀のトレード”で阪神に移籍し、70年限りで引退した。内角球を巧みにさばくバットコントロールから「シュート打ちの名人」「打撃の職人」との異名をとり、MVPを3度受賞したことから「オールスター男」と言われた。

 引退後は巨人、阪神などで打撃コーチを歴任。ロッテ、中日で指揮を執った。中日落合監督にもルーキー時代、ロッテ監督として打撃理論を伝授した。オリックス時代はイチローを指導した。気がつけば、他球団の選手にまで打撃理論を教えてしまうほど熱心な指導者だった。

 フランス代表監督だった吉田義男氏は、94年の約6カ月間、臨時打撃コーチとして現地に招いた当時を思い出して言った。「遠征先のイタリアから帰る汽車の中で、フランス語を話せない山さんが、ずっと身ぶり手ぶりでフランス人にバッティング技術を教え続けるじゃないですか。パリに到着するまでですよ。その熱心さに、フランス人選手もいつの間にか耳を傾けていたのは驚きでした」。「かっぱえびせん」山内氏には国境など関係なかった。

 [2009年2月6日8時26分

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