おやじさん、ありがとう-。阪急、近鉄を強豪チームに育て上げた西本幸雄氏が25日、心不全のため、兵庫・宝塚市内の自宅で死去した。91歳だった。元阪急エースとして西本監督のもとで戦った山田久志氏(63=日刊スポーツ評論家)も、悲しみに暮れた。71、72年日本シリーズを戦い、悔しさを分かち合った仲。ありし日をしのび「私にとっては日本一の監督」と振り返った。

 わたしにとって、西本さんは親も同然、かけがえのない存在でした。プロ入りしたときの監督で、仲人で、そして、秋田の雪国から都会に出てきたわたしには、厳しく、でも温かいおやじのような方でした。

 プロ入り2年目の1970年(昭45)。開幕から6連敗…。プロの厳しさに打ちひしがれてね。それでも西本さんには、これでもか、これでもか…というくらいマウンドに上げてもらった。5月の試合前、西宮球場の食堂の奥で天ぷらうどんを食べていた監督に呼ばれたときのことは、今でも忘れていません。

 「ちょっとぐらい勝てんでもへこたれたらアカン。苦しいかもしれん。でも、こつこつやっとったら、お天道さんはお見通しや…」

 このまま一生勝てないかもと疑心暗鬼になっていたわたしの心に、そのひと言が染みた。その年は「上がりなし」で毎日ベンチ入りして、先発、中継ぎ、抑えもやって、52試合に登板(10勝17敗)。今は考えにくいが、あの上がりなしで心身ともに鍛えられました。

 阪急ブレーブスで現役を20年間続けたが、西本さんにほめられた覚えがないんです。たった1度、ユニホームを脱ぐことを決めて真っ先に報告に行ったとき、初めて温かい言葉を掛けていただきましてね。

 「ヤマ、ええピッチャーになってくれたな。おれは誇りに思っているからな…」

 ジーンときました。もともと無口で、べらべらしゃべらない。頑固。いや、頑固を通り越していたね。こうと決めたらぶれない。ひたすら練習から最後まで選手の動きを、じっとみているタイプでね。監督に見られているこちらは手が抜けなくてね。でも、そのまなざしはいつもやさしい。

 1971年(昭46)10月15日。巨人と1勝1敗で迎えた日本シリーズは1勝1敗で第3戦(後楽園)。スコアは1-0。9回裏2死一、三塁。その年、22勝を挙げたわたしは、その瞬間、腰が抜けて立てなかった。王(貞治)さんにまさかの逆転サヨナラ3ランを浴びた、あのシーンです。

 その日、プロ入り初めて母親を球場に招待した試合だった。そこで痛恨の一撃ですからね。そこからの記憶が消えてしまったけど、かすかに覚えているのは、西本さんがベンチからわたしを連れ戻しにきてくれたこと…。サヨナラ打を浴びた投手をマウンドまで迎えにきてくれる監督って見たことないでしょ?

 でも西本さんは、マウンドまできて、わたしを抱き起こしてくれたのです。

 中日監督になった1年目も、キャンプ初日のグラウンドに到着すると、わたしより早くおやじさんが待っているじゃないですか。グッときました。「ヤマ、監督は孤独や。非情になることや。それができるかどうかや」。胸に響いた。プロで飯を食ってこられたのも、おやじさんのおかげ。感謝しても、しきれない。ありがとう、おやじさん。日本一監督にはなれなかったけど、わたしにとっては日本一の名将でした。