球界の功労者をたたえる野球殿堂入りが17日、都内の野球殿堂博物館で発表され、日米通算201勝で日米の懸け橋となった野茂英雄氏が史上最年少の45歳4カ月で選出された。選手として五輪出場しての殿堂入りも初。資格1年目ではヴィクトル・スタルヒン氏、王貞治氏に次ぐ3人目の選出となったパイオニアは、兵庫・豊岡市の城崎温泉の旅館で会見し、感謝の思いを口にした。

 野茂氏が劇的に殿堂入りを果たした。金びょうぶを背にしたパイオニアは「正直、候補になっている事実も知らなかったし、驚いています」と素直に喜んだ。

 「米大(リーグ)の殿堂入りもなかったし、記者投票で、現役時代は記者と仲良くなかったので意識してなかった。驚いたのと、うれしかった。ぼくの野球人生を支えてくれた家族、チームメート、周りの方々に感謝したい。感謝、感謝です。1人1人にお礼が言いたい」

 45歳4カ月での選出は最年少。資格1年目はスタルヒン氏、王氏に次ぐ3人目。選手として五輪で活躍した殿堂入りも史上初。今回の一発回答は、その生きざまが、いかに壮絶だったかを物語っている。

 高校では無名、新日鉄堺で頭角を現した。近鉄入りで「太く、長く生きたい」。150キロ超の直球と左右に落ちるフォークだけで勝負。1年目から8冠。ただトルネード投法は負担が大きいと指摘された。長崎・五島列島出身で漁師だった父親静夫さんが、魚のすり身料理、水代わりに牛乳、サラダ代わりにワカメを与え続けて成長。独特の投法を貫徹できたのは幼少から培われた強靱(きょうじん)なボディーが根底にあった。

 潮目が変わったのは、メジャー移籍だ。92年の日米野球でクレメンスを見た直後、紀久子夫人に「メジャーに行きたい」と初めて打ち明ける。愛妻も「パパの夢なら」。それがメジャー行きを決めた瞬間だった。94年近鉄との交渉がこじれ、任意引退の扱いを巡って対立。ドジャース入りが決まっても大バッシングを浴びたが、それをバネに、自らの力で絶賛の嵐に変えてみせた。

 1年目は長期ストの影響でファン離れが続いたが「NOMOマニア」の言葉が生まれる社会現象に、NYタイムズ紙も「大リーグの救世主」とタイトルをつけるほどだった。日本でもオウム事件、阪神・淡路大震災が起きた年で、海を渡ったサムライは“光”となった。

 その後、野茂氏を追い掛けるように、日本人選手が後を絶たない。「ぼくがメジャーに行かなくても、今のような時代はきていると思う」。本人は謙遜したが野茂氏が風穴をあけなければイチローも、松井も、ダルビッシュも大舞台を踏んでいない。「もっと日本は選手の条件、統一契約書の見直しをもう1度考えてほしい。考えるといって、もう約20年がたつ。(米大リーグへの)行きも帰りも見直す必要がある」と注文。日米の懸け橋となった男は、日本球界の抜本的改革を強く望んで締めくくった。【寺尾博和】

 ◆野茂英雄(のも・ひでお)1968年(昭43)8月31日、大阪府生まれ。成城工-新日鉄堺。89年ドラフト1位で8球団競合の末、近鉄入団。トルネード投法とフォークボールを武器に90~93年まで4年連続最多勝、最多奪三振。1年目は最優秀防御率、MVP、新人王、沢村賞。95年ドジャース入りし、同年ナ・リーグ新人王。96、01年にノーヒットノーラン達成(両リーグ達成は史上4人目)。03年にクラブチーム「NOMOベースボールクラブ」設立。08年7月に引退。現役時は188センチ、104キロ。右投げ右打ち。

 ◆1年目で殿堂入り

 候補1年目で殿堂入りは、94年王貞治氏以来20年ぶり。「ミスタープロ野球」長嶋茂雄氏は、86年に初めて資格を得たが5位で落選。87年も2位で落選となり、22年ぶりに上位5人から再投票が行われた。しかし、再投票でも1位ながら必要数に満たず落選した。この2年間は長嶋氏に限らず競技者表彰は全員が落選したため、5人から10人連記に投票規定を変更。3年目の88年、5年目の金田氏らと当選した。当時は高齢者尊重の慣行や有力候補が多数いたことから票が割れたとみられる。

 ◆今回の殿堂入りメモ

 45歳4カ月の野茂氏は65年の川上哲治(45歳8カ月)を抜き最年少で殿堂入り。スタルヒン、王貞治に次いで史上3人目となる候補1年目での選出。五輪出場経験者の殿堂入りも初。野茂氏と佐々木氏は、日本と米大リーグの両方を経験した選手として初の殿堂入り。野茂氏、佐々木氏はともに89年ドラフト1位でプロ入りし、同じ年のドラフト1位が同時に選出されるのは初めて。秋山氏は、川上哲治、鶴岡一人、落合博満に次いで4人目となる現役監督の殿堂入り。